『越後岩松家私史』

岩松一雄


十二、宝蔵院巣守社の狛犬と新田岩松猫のこと

 岩松義時が正長元年(一四二八)隣國相馬氏の圧迫に耐えず、越後勤王党の庇護を求めて陸奥より六十里峠を越えて新山に下向し、やがて天野長者の伝説を生んだ。
 その後裔は修験宝蔵院を創建し、岩松邸は豪壮で別棟の佛殿があったと伝えられ、屋根材料採収のため今以て宝蔵院茅場の地名が残り、邸と巣守社建物管理のため大工を常備し、冬場は鍋の蓋を作ったり台所女中の手伝いをしたという。
 また待宮巣守社(写真)の創建は詳かでないが宝暦三年(一七五二)は岩松屋敷に在り、この社地は岩松家破産にも債権者に渡さず、その後部落共有地となった。
   差入申一札之事
一、当村鎮守守門大明神 社地貴院寄附仕
  候処 相違無之御座候
  依之永々貴院御勝手御取持可成候
  為念寄附書依如件 但植木勝手可成候
   宝暦三年(一七五二)二月
      庄屋 平太夫
別当  宝蔵院殿   (岩松家蔵)
 寄進受けた敷地に建立された社殿は腐朽し、その後元治年間宝蔵院当主翠の代に至り、方四間総欅造り内陣格天井の社殿に改築された。
 改築年次は不明であったが、岩松家には棟梁が社殿の残材で製作した欅の長火鉢が残されており、その銘記から元治元年(一八六四)の建立と判明した。
 巣守社の境内は広く、また参道の杉並木は大正初期に新山小学校の建築用材に伐採されたが、一雄が大正十三年(一九二四)暮工兵十三大隊の除隊報告と境内にある岩松家の展墓に参拝した折、大きな切株に往時の森厳さを偲んだものであり、その後村方より新山鎮守社が腐朽したので宝蔵院巣守社の移築合祀の請願があって、当主逸記が承諾し大正十五年(一九二六)現在地に移築したもので、『栃尾市史』の地すべり移転説は誤りである。
 巣守社社殿の格天井の絵は卯香女の筆にして市指定文化財であるが、卯香女は仙台藩旗本佐藤治郎兵衛宗勝長女にして、来越し天王の市島、横越の伊藤、並柳の関谷、松之山の田辺、六日町の木村、新山の宝蔵院など絵師として巡回揮毫している。
 特に宝蔵院では巣守社の改築に際し、天井絵の作成のため長く滞留したので岩松家には、卯香女筆になる岩絵具で山伏姿の先祖像一軸および双鶏を描いた杉の柱掛が現在残っている。
 また巣守社の狛犬と宝暦二年(一七五二)中野俣の大ぬけにまつわる伝説が今日残っており、それはある日新山方向から三日三晩も不吉な遠吠えが続き、繁窪の里人は不吉な予感に警戒していたところ、その直後に繁窪地内で歴史に残る地すべりが起ったが、幸いにして奇蹟的に死傷者は皆無で奇特を欣んだ。
 翌日村民は宝蔵院さまのお告げらしいと巣守社に集ったところ、平素は社殿で子供達の遊び道具だった木彫の狛犬の足が一本欠け泥にまみれていたことで、宝蔵院さまの狛犬が毎夜馳け巡って危険を告げたと語合い、その狛犬は格子戸の門に納めたと伝えられてきた。
 昭和四十八年(一九七三)一雄は東光寺住職と鎮守社格子門を調べたところ、伝説の狛犬は見当らず後世作になる一刀彫白木狛犬像一対があり、銘に小千谷三佛生甚五郎作宝蔵院七世(翠)、阿ら山与之七文久二年(一八六二)二月求之とあって甚五郎は当時巣守社造営の棟梁にして、社殿完成後これを奉献したものであろう。
 この他宝蔵院全盛時代の家宝類は、明治中葉岩松家が水力発電事業の失敗による倒産で、悉く債権者の手に渡り残されてはいない。
 降って一雄の代に至り、墓守として唯一軒新山に残っている子方家持の権四郎宅に墓参の途次立寄ったところ、当主の山本孝雄氏から本家から疵物としていただいた瀬戸の梅干甕がありますとて筑後の二川焼の甕を見せられたが、近年の民芸ブームで珍重される逸品が岩松家の台所用品であることに驚きを覚えた。
 その後の墓参でさらに権四郎方には疵物の小茶壷が発見され、一雄は貰い受けて帰宅し点検したところ尾形乾山作の秋の七草文茶壷とわかったので、壷口の修理と牙蓋の修覆をし二川焼甕と共に家蔵としているが、流石天野長者と呼ばれた往年全盛時代の一端を垣間見ることができる。
 また上州においては礼部家岩松氏は沈淪久しく困窮し、歴代当主は余技としての一筆描き猫の絵を領民の乞を入れて頒布したが、土地では新田岩松猫と呼び農家の鼠除けの呪として評判が高く、毎日揮毫を乞ふ者市をなしたと伝えられ、近年に至り大津絵のように民画として珍重されている。

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更新日:1997年8月19日