『越後岩松家私史』

岩松一雄


十三、岩松姓の全國分布

 抑々岩松氏の出自は、八幡太郎義家の曽孫足利遠江守義純は新田大炊介義重(新田氏の祖)の孫娘来王御前(後新田岩松禅尼と称す)を娶り、嫡遠江守太郎時兼は母の所領上野國新田荘岩松郷を相続して岩松氏を創設嘉禄二年(一二二六)地頭となった。
 岩松時兼に六男ありて村田、田部井、寺井、金井、薮塚、田島に分族し、上毛の地において開墾領主として足利、新田氏と共に岩松氏は栄えた。(『群馬年表』)
 元弘三年(一三三三)四月廿二日岩松氏は足利尊氏の討幕を促す尊氏教書によって、同年五月八日新田義貞の挙兵に呼応して岩松嫡男義政は本領上野國の守備に、弟頼宥(出家して本堂禅師)と兵部大輔経家は鎌倉攻めに功を樹てた。(『太平記』、『梅松論』)
 やがて建武元年(一三三四)足利尊氏謀叛に及ぶや同二年(一三三五)七月頼宥、経家弟二人は武蔵國女影原に戦い討死した。(『太平記』、『梅松論』、『新田族譜』)
 また本領上野國守備の嫡男蔵人頭義政も武家方に敗れ、再起のため上毛の地から支領の陸奥國行方郡千倉荘に応永十三年(一四〇七)下向した。(『奥相秘鑑』)
 陸奥に下った義政は志半ばにして応永廿六年(一四二〇)病没したが、予てより隣國北朝方相馬氏の謀略は義政の死によって攻勢頓に高まるや、家臣の岩松四天王らは相謀り遺児の岩松太郎義時を正長元年(一四二八)越後へ落して在地勤王党の庇護を求めたが、世は既に南風競わず宮方は各地で沈淪した時代であった。
 やがて越後は北朝の天下となり、岩松氏は素より越後には采地が無かったので、義時は下向先の越後古志郡高波荘新山の地に当山派修験宝蔵院を創設した。
 このように岩松氏本宗は宮方として六十年に亙る戦いで、本領の上野國から支領の陸奥國へさらに越後國へ流亡したが、後裔は越後岩松家に享け継がれ今日に至る。
 またその他岩松氏一門は元弘三年(一三三三)の変以来常に領國から出撃して勤王方に協力し、錦旗の赴くところ信濃、阿波、伊予、肥前と各地に転戦したので、その戦歴が示す地方には、岩松の地名や岩松姓が分布している。しかし本領の群馬地方は当時武家方の探索が厳しく岩松支族を名乗る者はなく、岩松氏位牌所群馬県太田市新野の東光寺現住の話では、新田郡にはないが妻沼や利根郡地方には明治維新の大政官令による岩松姓が若干存在する由である。
 また義政下向地陸奥では福島県相馬郡鹿島町の阿弥陀寺住職談に、鹿島町には堂守の岩松と呼ぶ大政官令による者(北海道住)以外には無いが、磐城白河地方に岩松姓が多く義政滞陣間に帰農した支族と見られ、磐城平の安藤藩に岩松姓側用人があった。
 応永廿三年(一四一六)禅秀の乱に上杉禅秀の舅武田信満と女婿の岩松満純は同腹して敗れ、満純は捕へられ竜ノ口で斬られたが武田勢は甲州に引揚げ、その際岩松方の武将が従ったといわれ甲斐にはその子孫が残っている。
 また正平七年(一三五三)新田義宗、宗良親王を奉じて武州小手指原に戦ふも利あらず、親王は越後から信州へ駒を進められたが、これに多勢の岩松一門が扈従したので信州南佐久地方に定住し岩松姓が意外に多い。(藪塚喜声造『新田一門史』)
 また阿波國生夷荘は弘安元年(一二七八)以来の岩松領で、建武中興には在番の岩松党が小松浦の海賊を率いて功を建てたが、尊氏謀叛の砌り観応八年(一三五二)北朝方の細川頼春を中津峯山に迎撃して敗れ、岩松党は大舘氏明の支領北伊予高田荘に下向された懐良親王軍に合流し再挙を計ったので、讃岐地方に岩松姓見ゆと『姓氏家系大辞典』にある。
 このため宇和島の津島地方に岩松の地名があり町誌に曰く「上州岩松郷の大名で新田一門である岩松経康が、懐良親王に扈従しこの地に止まる」と由来を記している。
 しかし伊予の宮方振わず親王は興國年中(一三四〇〜)岩松地内の拝高竜ノ口にて自盡されたので、岩松党は海を渡り北九州の菊池勢と錦旗の下で戦ったことから、諌早地方にも上州、伊予と同じく岩松郷の地名があり、太田 亮の『姓氏大系』には「九州の岩松姓は南朝忠勤の子孫なり」と記し、『姓氏家系大辞典』にも「岩松氏の内南朝に忠し九州に下れる者ありと『鎮西要略』に見ゆ、大村藩士岩松氏はその後か」と掲げている。
 また討死した岩松経家(義政の次弟)の孫家純と、末弟直國の曽孫持國その後武家方に転じて栄え、上野國新田荘の大半を領して岩松氏は併立した。(『群馬年表』)
 長禄元年(一四五七)将軍義政は関東諸豪統一策の一環として両家に内命状を下し、家純の領を割き持國に分与せしめ、家純は職名治郎少輔を襲ぎ礼部家岩松氏を、また持國は右 京大夫を世職とするところから京兆家岩松を名乗らせ以後岩松氏は二流となった。
 両家とも将軍方となりて新田荘に栄えたが、永享十二年(一四四〇)結城の乱には礼部家は将軍方として結城攻撃に、京兆家は成氏党として結城方に加わり対立した。
 嘉吉元年(一四四一)家純は結城討伐の功を賞せられたが、長禄二年(一四五八)持國は古河公方成氏を離れて堀越公方政知に服すなど関東騒乱で、両家は相対した。(『松蔭私語』)
 寛正二年(一四六一)持國その子成兼は再び成氏に属したが振わず、甲斐の武田方に隨身して後閑の地を賜り、後閑氏に改姓したので京兆家岩松姓はこの時を以て消滅した。
 礼部家の家純は文明元年(一四六九)上野國に金山城(太田市)を修築し大いに栄え、その孫尚純は風雅を好み宗祇らと交わって『池水草』を残した歌人であり、藩政を家老横瀬成繁に委ね岩松舘に閑居して世を去った。
 嫡男昌純は横瀬氏の専横を恨み之を除かんとして失敗し、却って死を早めその名跡は弟の氏純が継いだが既に兵馬の権は横瀬氏に帰して礼部家は衰微した。
 氏純の跡守純に至って天正十二年(一五九〇)小田原城陥り徳川氏の世になるや、岩松氏の本領は没収されて僅か新田郡市野井に二十石与えられたが、後将軍家綱之を憐み百石加増抑々間席御慶参府の格式を与えられ、下田島に移り世々岩松万次郎と称したが維新に至り南朝忠臣顕彰運動によって、岩松満國の養子満純は新田義宗の遺孤にして義貞の正統なることが明らかとなり、岩松兵部俊純は新田姓に復して明治十六年(一八八三)男爵を授けられ、之により礼部家岩松姓も亦消滅した。
 この礼部家岩松氏の支族について『新田族譜』に依れば、岩松治郎大輔守純の三男庄左衛門重政は始め脇屋氏を称したが孫義矩に至り岩松半左衛門に改め、その後裔は徳川氏に仕え大阪金奉行となったのが岩松姓を名乗る唯一の支族である。
 また岩松義政の次弟頼宥は出家して本堂又は岩松禅師と呼ばれ、鎌倉攻めには弟経家と行動を共にして建武の中興に功を樹てたが、尊氏謀叛に及び弟経家と共に武蔵國女影原にて戦い、『新田族譜』には「岩松頼宥(本堂禅師)建武二年(一三三五)七月於女影原兄弟三人与義貞同心討死」とあるが、弟三人は誤り弟二人である。(『新田族譜』)
 然るに久米邦武の『南北朝時代史』(明治四十年(一九〇七)早大刊)において、頼宥は還俗して武家方に転じ後光厳帝を立て、正平八年(一三五四)頃赤松則祐らと鎮西の地にて戦い足利義詮に賞せられたことが記され、岩松頼宥討死も亦誤報である。
 すなわちその頃の『岩松文書』から頼宥の生存は確かであるが子孫は未詳である。
   岩松禅師頼宥代有義申
 上野國新田荘寺井郷内 田在家事、 右地者頼宥為勲功之賞 去貞和三年(一三四七)三月廿六日拝領之処、…下略
   観応元年(一三五〇)五月七日
  下岩松禅師頼宥
 可令早領知 和泉、備後両國内 世良田右京亮跡 上野國新田荘内 木崎村、安養寺(義貞跡)事 右為勲功之賞 所充行也者 守先例可致沙汰之状如件
   観応元年(一三五〇)拾貮月廿七日
 因に『大人名辞典』に収録されている岩松姓の人物はすべて中世以来の武将にして、岩松時兼、同政経、同義政、同経家、同本堂禅師、同直國、同満國、同満純、同持國、同家純、同尚純、同昌純、同氏純、同義寄などある。
 また吉川英治の『私本太平記』には新田義貞と旗揚げの岩松経家と、触れ不動の活躍をした吉政が見え、杉本苑子の『逆臣の袖』では禅秀の乱に敗れた満純が描かれている。
 また大佛次郎の『天皇の世紀』には慶応三年(一八六七)岩松満次郎が首謀者となり、上州沼田城を襲撃して武器を奪い、横浜の異人征伐を企てたが不発に終った事件に登場しているが、この人物は明治元年(一八六八)東山道総督隨従を仰付けられて新潟市沼垂に来越した古文書が新潟市蔵書中に見える。
 また近世において岩松姓の著名人は意外にも少なく、『大人名辞典』に記す岩松助左衛門は文久元年(一八〇四)豊前小倉長浜の庄屋に生れ、若くして海上御用掛難破船支配を命ぜられて灯台建設の公共事業功労者として知られ、昭和に至り東京府会議員に岩松経兼、また岩松検事総長や台湾軍参謀長から第十五師団長となった岩松義雄がある。
 さて岩松氏本宗の後裔は、応永廿三年(一四一六)蔵人頭義政が陸奥國行方郡千倉荘の下向先にて病没しその一子専千代(義時)、家臣に謀殺さるとして以来その後裔は伝外に葬り去られたが、事実義時は越後へ潜行し古志郡高波荘に岩松家を再興した。
 しかし越後には岩松氏の家領が無いことおよび隠栖地が山間地方で耕作地が限られ古くから戸数制限(棟制度)が厳しく守られた土地柄から岩松家も分族を禁じ、次男以下は他家と養子縁組を例として明治期に至った。
 しかし昭和に至り逸記の長女マス(大妻女子大学教授、理事)は、日本私立大学協会家政学振興会委員および通産省並農林省の専門委員などを兼務して生涯独身で通したが、昭和四十六年(一九七一)七十四才で没し大妻学園葬となり謚文徳院殿玉節慈照大姉、その跡は姪不二子を養女とし越後岩松家初の支族となった。
 因に新山部落は戸数八十を限度としこれ以上の分家を許さず、この居住権を棟と称し他郷へ移住する場合には、この棟の権利を売却して旅費に充てる風習があり、この制度は近世まで厳しく守られて来た。
 明治維新となるや庶民にも苗字を差許す大政官令が発布されたが、当時岩松左内は戸長をしていたので雇人同士を娶わせて棟を買い与え、本家の田畠を自由耕作させるいわゆるおとな家持(子方家持)を六棟作り労働力の確保をはかった。
 新山村の制限八十戸まで尚二戸分の余裕があったので、おとな家持頭の政治衛門と小頭の治左衛門の二棟には大政官令による岩松姓を許し、権四郎、天野、清八、今造の四棟には、棟を買い与え夫々前所有者の姓を名乗らせた。
 これらの分家達は、左内が明治廿年(一八八七)に新田開墾と水力発電事業に失敗し、続いて他人の債務保証の責任を負って破産するや、夫々分家は慣習的な小作権だけに債権者に悉く取り上げられる仕儀となった。
 このため新山には本家の墓守として山本権四郎のみ残って清八と今造は栃尾へ、岩松政治衛門と岩松治左衛門は東京へ、天野は北海道へ移住して離散し、本家の没落と運命を共にしたが、後年この経緯を知らぬ人の間に明治十三年(一八八〇)東中野俣舊庄屋諏佐森三郎が製糸事業に失敗し、多くの村民に迷惑をかけ大混乱となったいわゆる新山事件と岩松家破産とを混同した誤伝が残っている。(『栃尾市史』別巻U)
 因に岩松氏の家紋は『姓氏大系』および『岩松一族の系譜』によれば、五三の桐、十六葉裏菊、旗指物は大中黒にして五三の桐は朝廷から下賜されたものである。
 越後岩松家の紋所は昔から表紋(男子)は五三の桐、裏紋(女子)は丸に下り藤を用いていたが、抑々藤紋は藤姓足利統である出自を示したものであろう。
 岩松氏本宗である越後岩松家が敢えて藤紋を用いた理由は、越後に隠栖し北朝方を憚り十六裏菊紋の使用を避けたものか定かでないが、近年に至り逸記の代には桐紋を使わず優しさを賞で藤紋に統一した。

前ページ|本ページ先頭|次ページ

フンちゃんホームページ
岩松地名考
『越後岩松家私史』もくじ

連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:1997年8月19日