『越後岩松家私史』

岩松一雄


十一、岩松氏の信仰

 戦いに明け暮れした中世の武将達はいづれも信仰心が篤く、恰も新佛教興隆時代とて競ふて氏寺を造営したが、岩松氏も亦本領の上野國に三ヶ寺の氏寺を、また支領の陸奥國は在部浅く阿弥陀堂に止めたが、最後の下向地越後國は氏寺を建立した。
 すなわち義純は遠祖源義國を祀る岩松山青蓮寺(写真)(本地来迎寺式三尊)を建立し、また時兼は母追善に金剛寺を岩松に建てたが廃寺となり趾に正和四年(一三一六)の板碑が数基ある。
 また岩松時兼は新田荘尾島に氏神の岩松八幡宮(写真)を造営して現存し、因に岩松氏の舘趾は群馬県新田郡尾島町三菱電機群馬工場内に立派な石碑が建っている。
 また時兼は文応二年(一二六〇)新田荘新野に氏寺臨済宗瑠璃光山東光寺(本地薬師如来)を建立し、後年持國は復興の為寺領として新野、二基郷を与えた『岩松文書』がある。
上野國新田荘内新野東光寺之事 松寿丸成人間任先例進置候 仍為後日證文如件
 寛正五年(一四六五)三月廿六日
  東光寺怡雲殿  成兼(岩松持國の子)
 『新田勤王史』によれば、岩松氏衰微するや東光寺の住職在室長瑞和尚は寺を捨て、上野國新田太田山金竜寺(新田義貞創建)に退職したが、出奔に当り重宝を悉く持参したので、このため寺領も取上げられ無住時代もあったといわれる。
 因に新田氏の檀那寺世良田の天台宗長樂寺は当國無双の禅院と呼ばれて興隆し、寺内には礼部家岩松安純以下道純までの墓があるが、徳川の天下となり新田義重四男義季を徳川氏の開祖とし、将軍吉宗は長樂寺を氏寺と称し境内に東照宮を造営した。
 昭和四十年(一九六五)秋一雄は伜暉を同道して先祖の地歴訪の途次東光寺に参詣し山影晩稔住職より、慶長六年(一六〇二)炎上什物悉皆焼失し、寺社奉行には「岩松氏位牌所にして岩松蔵人時兼開基」の申立書と東光寺殿岩松時兼大居士の位牌並に、奥欄場には新田義興の墓現存すといわれ、往古は方一町の壕を巡らす大伽藍だった由である。
 しかし岩松氏の墳墓なく、現住談によれば岩松方が足利方に敗れるや、足利方によって岩松氏の墓は悉く撤去せりと伝えられ、応永廿一年(一四一五)曹洞禅に改宗して檀家を開放したが現在五十戸に過ぎず、また岩松姓の檀家皆無で岩松本宗の後裔と名乗る訪問者は初めてなりとて、越後岩松家の家系調査の完成を期待された。
 次いで翌昭和四十二年(一九六七)夏一雄は暉を伴い、岩松義政の下向地福島県相馬郡鹿島町を訪問し、同地の岩松公の事蹟を教育長猪狩三夫氏の案内を得て踏査した。
 ここに舊千倉荘は義政入部十年にして家臣の謀叛で岩松氏滅ぶと伝えられる為、岩松氏はこの地に氏寺を造営するに至らず持佛の泰安殿阿弥陀堂建立に止っていた。  すなわち『鹿島町誌』中目山岩松院(舊道空院)の項に曰く「創建は応永十三年(一四〇七)丙戊初冬、岩松蔵人頭義政奥州行方郡千倉荘の領主となり海路を下る、義政横手邑に居舘し屋形村に方三間の堂を建て額(長松月江筆)を掲げ阿弥陀堂となし、奉持の守佛を安ず」と。堂は後年創建の浄土宗中目山阿弥陀寺境内に現存している。
 古来より高士は高貴な精神と優れた美術鑑眼とが資格といわれるが、果せる哉義政下向の折奉持せる尊像は名品にして、『鹿島町誌』に「信州善光寺程見の如来と称す、善光寺如来は三國伝来にして人作に非ず」とある。
 「阿弥陀堂の三尊阿弥陀如来は、鋳銅立像一尺五寸(脇侍勢至観音一体欠)世に春日作と云、日本三体霊佛(四國、筑紫善導寺、当寺)にして、岩松義政の守本尊であり淨観の刻あり」と記され、因に阿弥陀佛は元来天台系の佛である。
 また「中将法尼、剃髪してその髪毛を以て刺繍せる毛縫六字名號一軸(昭和卅五年(一九六〇)重文指定)その他数々の什宝と源氏、足利氏、岩松氏系図一巻の古書ありしが破損し、今に存するものは写書なり」など鎌倉期の優品が残されている。
 この義政持参の重宝等は岩松氏滅亡の後羽刈貞胤公拝覧されて悉く補修し、正徳元年(一七一一)相馬封内の浄土宗七箇寺を合併して阿弥陀寺を建立して奉納し、寺内に義政公夫妻の位牌を祀って今日に伝えている。(『鹿島町誌』)
 岩松義政応永廿六年(一四二〇)病歿するや北朝方相馬氏の謀略は加増したので、義政遺児義時は重臣らの計らいで勤王党を頼り正長元年(一四二八)越後へ下向した。  やがて世が静謐となり義時は上野國氏寺と同名の東光寺(創建年未詳、新義真言宗)を建立して、伝奉澄大師作(白山修験)の修験佛大日如来三尊を勧請した。
 その後享保九年(一七二五)東光寺の炎上以前に於て何等かの奇縁で、本地佛の大日像(写真)のみが寺伝の慈覚大師作の佛像に入替えられたが、その経緯は岩松家に口伝はない。
 因に寺伝の大日像作者慈覚大師円仁は延暦十三年(七九四)下野國に生れ、比叡山で最澄に師事して天台座主となり東北を巡錫し貞観六年(八六五)歿している。
 後年泰澄佛と差替え慈覚大師作と称する大日如来像は座高五六・五糎の小像にして、桂材寄木造りで頭体は一本より彫出し漆箔仕上げ條帛をつけ、智挙印を結び結跏趺坐の金剛界大日如来像にして、厨子、光背、蓮華台岩松左内寄進による後補である。
 容貌は半眼伏目の柔和な温相をあらわし藤原時代後期の典型的な平安佛にして、髪は櫛目美しく双髪に束ねられ、額には水晶の白毫が植えられており、また面は奥に向って広がり大きな耳のつけ根の部分は結合しているため奥行が感ぜられる。
 眼の視線は鼻梁に注がれ沈思黙考し、顎の張りときりきり結んだ口の辺におだやかな中にも厳しさがただよっている優品である。(『栃尾市史』)
 また肩の線はやわらかに上膊にのび、肘をやや張り気味にして智挙印を結び、左手と右手との間隔は広く、左の人差指をきわだって長く見せているのが特徴である。
 衣紋は連波式で浅く、腰から上の線は複雑に、腰から下の線は単純で流れるようにさわやかに彫られ、全体として温和な印象を拝する者に与えるが、栃尾常安寺の開基門察和尚はこの像を見て「珍しき古佛なり」と激賞したと伝えられている。
 脇侍の毘沙門天は像高九十・五糎、椿の一木彫成漆箔仕上げで踏んまえている邪鬼は後補で稚拙であり、また不動明王は像高さ八十九・五糎桧の一木作りの漆箔像で、迦樓羅炎の光背が豪壮な寺伝泰澄作の修験佛である。(『栃尾市史』)
 本地の大日像は昭和三十七年(一九六二)県文化財審査において藤原後期の定朝系佛師の作と鑑定され、寺伝による慈覚大師説は否定された。
 また本地差替えの経緯については諸説があるも傍証なく、両脇侍についてのみ岩松家代々当主に「本地よりも脇侍が古く重宝である」との口伝が残っている。
 これを裏書する哀話に享保九年(一七二五)東光寺出火の折、他出中の住職が馳せ帰るや独力で先ず脇侍を厨子ごと搬出し、最後に本地持ち出しに折返した頃は大日像の厨子は類焼していたが、辛くも像を台座からもぎ取って待避したといわれ、岩松家には東光寺の美談として伝えられて来た。
 こうして時の住職は身を挺して重宝を守ったが、この火傷がもとで住職は半年後亡くなったといわれ、これは住職が脇侍の方が稀観佛であることを熟知し、咄嗟の間にも脇侍を先づ搬出したことを物語るものである。  従って脇侍は本地大日像の美術的価値とは別に修験道史の観点から研究に値すると考え、一雄は昭和五十五年(一九八〇)東大名誉教授で泰澄研究の第一人者として著名な平泉 澄先生に、東光寺脇侍の写真を送り鑑定を求めたところ、その返書において「岩松氏は新田一族の名家であり、乱離の世に岩松氏が山伏となって人目を逃れたことは自然でありうなづけます…中略…写真では不動尊及毘沙門天が千二百年前の古い彫刻とは思われませんが、泰澄作と伝えられることは面白いです。…後略…」との書翰を頂いたが、福井県の白山社から先生に来越を乞うことは傘寿を超える高齢のため懇請しかねたところ、ほどなく逝去され機会を失した。
 しかし泰澄の越後における足跡には名立岩屋観音堂の聖観音と柿崎大泉寺の千手観音像が泰澄自彫(『新潟県百科辞典』)といわれ、また荷頃の曹源寺は元修験院で本地聖観音も泰澄作(『栃尾市史』)といわれるがいづれも真偽は不明である。
 このように泰澄大師は中越地方まで巡釋に及んで居り、岩松家は修験院として白山修験との交流もあるため、作佛入手には縁故もありまた財力もあった筈である。
 因に泰澄大師は『佛教大辞典』において「越前國麻生津の人、姓は三神氏父の名は安角、母伊野氏なり白鳳十一年(六八三)六月十一日生る。幼にして児輩と交らず、常に泥土を以て佛像を作り三宝を恭礼す、僧道昭遊化してこの地に来り三神氏に宿して師を観、その神童なるを称す。十四才にして自ら薙髪して比丘となり修懺すること積年、遂に密□を感悟して、文武天皇大宝二年(七〇二)鎮護國家大法師の號を賜う。養老元年(七一七)加賀白山に登り妙理大菩薩を感見し、後山を下りて京に出で行基と相知り、共に深契す。元正天皇不予となり詔に依り宮中に伺候、忿怒明王を称するに玉体安泰也、仭て供奉に擢でられ神融禅師の號を賜う。天平宝字二年(七五八)越智山に帰りて岩窟に棲住し、読経持呪を事とし余暇に小塔婆を彫作して衆人に施与せり。神護景雲元年(七六七)二月書を吉備公に贈りて称徳天皇に告辞し、同三月十八日結跏趺座し定印を結びて禅定す。寿八十六。世に越の大徳と称せらる。」とある。
 このように泰澄は役の行者に続いて八世紀を中心に多くの神験をあらわし、「越中立山や加賀白山にて常に雲裏に臥し、薪炭の労を執りて倦まずいわゆる浄定行者として苦行の輩雲集す」と伝えられる著名な白山修験であった。
 さて東光寺の正しい由来は、火災と大檀越岩松家没落により村を去ったので諸説が生れたが、寺院は被災後四十年の明和二年(一七六六)再興(庫裡の棟札)し、それから岩松家の当主は本地の焼失した厨子の新調が久しい間の念願であった。
 漸く明治十年(一八七七)頃左内の代に至り金百両を寄進して新調したが、その事実については昭和卅七年(一九六二)大日像県指定により、県並に市費を以て大日像後頭部の焼痕を國宝修理所で修理の折、厨子および蓮華台と光背は洗剤払拭で済み、近年の製作と判明したことから、金百両岩松左内と紫袈裟一重左内室の寄進札(本堂廊下に昭和初年まで掲げられた事実を、巻町万福寺住職と一雄の証言あり)の使途が漸く明らかとなった。
 また明治十二年(一八七九)八月記の東光寺什物帳には、宝蔵院寄進として本尊前机一基と十六善神二軸とあり、十六善神は大般若の護法とされるため当然大般若も寄進されたものであり、恐らく大日像厨子新調と同時に整えたものであろう。
 また新山小字天野に在った宝蔵院の佛殿本地であった、寄木造り丈一九糎結跏趺座の薬師像は現存し、県文化財審議委員故宮 栄二氏は鎌倉期の優品と鑑定されたが、本像は惜しくも一雄が少年の頃小川で厨子を洗條し光背と蓮華台は流失し欠損している。
 また岩松義時が陸奥國千倉荘から越後下向の折、笈摺に奉持したと伝えられる守本尊の十一面観音(金銅立像高さ八糎、胎内佛にして手半に造る定法通りの古佛)が岩松家に現存している。
 このように本領の上野國新田荘の氏寺東光寺と、支領陸奥國千倉荘の阿弥陀堂および、義時下向先の越後國高志郡繁窪の位牌所東光寺に夫々勧請した佛像は、いづれも密教佛に統一されて誤りなく、佛教に対する智識の深きを偲せるものがある。
 すなわち上野國東光寺には希望と慈悲を心とする天台系の薬師如来を勧請し、また義政陸奥下向には彼岸への憧憬を求め来迎思想の阿弥陀三尊を奉持している。
 また義時越後下向には慈悲象徴の天台系の十一面観音を持佛とし、やがて高波荘新山の地に定住するや、繁窪に位牌所東光寺を創建して智恵神の大日如来と定法通りの脇侍を勧請し、宝蔵院佛殿には現世理益の薬師像(岩松家現存)を奉安した。
 因に鎌倉時代の武将は舘内に持佛堂を建てたが足利氏は金剛界大日像を新田氏は胎蔵界大日像を奉祀したといわれ、岩松氏も高い見識を以て家門の消長があったが勧請した佛像には、錯誤や俗信的なものなく名家の誇りを失ってはいない。(『新田氏研究』)
 因に繁窪東光寺婦人会によって唱和される御詠歌は、昭和四十八年(一九七三)夏住職小杉玄龍師から歌詞創作について相談があり、一雄が長岡市の歌人遠山夕雲先生に作詞を懇請して献詠したもので今日愛唱されている。
  東光寺大日如来讃歌(遠山夕雲作詞)
ひ、光こそいのちの善のもとと、この里人を照らすみ仏
ふ、深く世に因縁さとして里人に、真の光めぐむみ仏
み、み恵みのみ光尊とあら尊、わが東光寺大日如来
よ、世の中の変らぬ人の真心の、光をめぐむこのみ仏
い、いつまでも生命安けき無量寿の、光とうとし大日如来
む、睦まじき心に光この世にも、またこん世にも照らせみ仏
 遠山夕雲先生は栃尾実科女学校長を奉職された縁故あり、またはやくより歌人として知られ中越地方には会員三百余に及ぶ夕雲会と主宰し越佐新報の選者であった。
 また門人達により『夕雲歌集』が中央において二冊出版され、栃尾の秋葉公園および守門山と長岡の八方台や見附の観音山には里人によって歌碑が建てられたが、昭和四十九年(一九七四)秋九十才の天寿を完うされた郷土の有名歌人である。

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更新日:1997年8月19日