岩松 暉著『山のぬくもり』35


議論

 卒論・修論の発表会があった。中には唖然とするような初歩的な誤りもあった。仲間同士で議論をしていれば、誰かが気がついて注意をしてくれそうな類の話である。データが出る度に指導教官のところにうるさくやってきて自分はこう考えるのだがと議論を吹っかけてきたのは昔の学生、今では避けて回ってデータを見せようとしない。学生との年齢差が開く一方なのだから、来にくくなったのだろうとも思うが、上級生にも相談しないし、同級生とも議論をしない。自分だけで考えているから思考の袋小路に入り込んでしまい、初歩的誤りに気づかないのである。やはりテレビゲームの世代は対人関係が苦手で議論を好まないらしい。
 議論といえば、アメリカのように小学校の頃からディベート(debate:対論)する訓練が必要なのではないだろうか。日本人は議論が下手である。国会の論戦を聞いていても、いい放しすれ違いばかりで、あれは議論ではない。日本の民主主義が底が浅いと言われる所以である。
 議論にもいろいろある。研究社の『新英和中辞典』によれば、次のように区別される。
Discuss:ある問題をあらゆる角度から論ずる。いろいろと異なった意見を建設的に討議して問題を解決したり、今後の方針などを定める;友好的な空気の中での話し合いに用いる
Argue:自分の考えを主張し、相手の説を反駁するために理由や証拠をあげて議論する
Debate:公の問題を賛成・反対に分かれて公開の席上で公式に討論する
Dispute:両者の間に意見の対立があり、熱狂したり憤激したりして議論することを暗示する
 われわれに必要なのは、合意の形成を目指して議論するdiscussionである。アメリカのような多民族多宗教の異質者集団からなる国家が、平和裏に生活していくためには、このdiscussionが不可欠なのである。人種問題など複雑な問題を抱えているアメリカでディベートが重視された所以であろう。
 一方、一昔前の学生運動の活動家や革新政党の党員などの議論はargumentかdisputeだった。己が絶対に正しいとして他を説き伏せようと躍起になった。地に足がついていない議論だから空中戦と言っていた。宗教団体の信者や原理主義者も同様である。折伏という言葉もあった。これでは不毛で、時間の無駄に近い。結局、あいつは話のわからん奴だと排斥し、自分と似た少数の同質者集団としかつき合わなくなってしまう。一部住民運動と行政との対立にもこの構図が見られる。
 これからの世紀は多元主義の時代であり、科学でも複雑系の科学が台頭してきている。複眼の思考が求められているのである。これからの若者たちには、あらゆる角度から論ずるdiscussionの習慣を身につけて欲しいと思う。自分の殻に閉じこもり、思い込みで行動するようでは、ファッシズムやオウムの二の舞を演ずることになる。

(1997.3.29 稿)


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更新日:1997年8月19日