岩松 暉著『山のぬくもり』3


朱泥

 澄み切った青空に白い煙をあげる桜島、南国鹿児島は底抜けに明るい。どんよりと曇った鉛色の空からみぞれが音もなく降る、そんな日本海側とは好対照である。そうした風土のためか南国には画家が、日本海側には作家・文学者が多く輩出するという。私は新潟出身である。小川未明・水上勉といった日本海文学の系譜に心惹かれる。この人たちの作品はどこかもの悲しく、陰惨ですらあるとして嫌いな人も多い。しかし、それは違う。寒々とした心まで凍てつくような、そんな後味の悪い読後感は残らない。どこか温かいのである。晴れたしばれる(凍る)日に比べたら、雪の降る日は暖かい。ストーブの暖かさではなく、そう、人肌の温もりである。凍死しそうな人を助けるには、ストーブの直火にあててもだめで、肌をぴったりつけて抱くのが一番という。身体の芯から暖まり蘇生する。日本海文学、いや日本海人にはこの温かさがある。
 『はなれ瞽女おりん』は水上勉の代表作の一つ、私の出身地柏崎が舞台である。この自作に関して、氏は次のように述べた(木村光一氏との対談)。
 「これは心というものと重なるんですけれども、山も子宮を抱いていて。血の出ている場所がある。それを朱泥という。山が温かいものを抱いている。それを人は見たことがない。見えない。そこから雨が降って流れてくるのが川である。山が抱いておる山の心みたいな、力みたいなものが秘められてある。」
 おりんは「あの山が待っている。米山が待っている」と言って、吹雪の日に出かけた。米山の胎内にある温かいものが彼女を呼んだのだ。それは灼熱のマグマではない。荒々しく噴火することもない。しかし、もっと本質的なもの、人間の心を真っ当にしてくれる母性の温かさである。
 私は今日も山を歩く。地質屋になったのも、この山の温もりに惹かれたのかも知れない。私も山の心を抱き続け、学生たちにとって温もりのある存在になりたいものだ。米山のように。

(1996.11.30氷雨の根尾谷にて 稿)


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更新日:1997年8月19日