岩松 暉著『山のぬくもり』2


こけし

 学会出席の合間を縫って新装なった長崎原爆資料館へ行って来た。かつて学生時代に訪れ、非常に印象に残った永井博士の掛軸をもう一度見たかったのである。残念ながら新館では展示していなかった。しかし、今でもそらんじている。
「おさな子は 母の口ぐせそのままを こけし抱きしめ 言いきかせおり」
 永井博士は原爆で最愛の妻を失い、自分もまた病床にある。その傍らで母とよく似た顔立ちの幼い娘が無心にこけしと遊んでいる。亡母に自分が言われたとおりのことをこけしに言い聞かせながら。母親の口ぐせを真似てお人形遊びをする姿はよくあることで、永井博士の置かれた背景がなければ、何の変哲もないほほえましい光景である。しかし、自分は間もなくこの子を残して世を去らなければならない。孤児になる運命のわが子のつかの間の幸せ。父親永井博士の胸中は察して余りある。
 私はこの掛軸の前で立ちつくしてしまった。実は私も幼くして母を亡くしている。戦後台湾から引き揚げた直後のことだった。父が引き揚げてくるまでの間、姉と二人、事実上の孤児である。亡くなる時の母の心境を永井博士の歌に重ね合わせ、目頭が熱くなった。それからは姉が親代わり、母の口ぐせそのままに叱られたものだった。食糧難の時代、仏様の柿を失敬した時のことである。母のこと、台湾のこと、戦後の混乱、いろいろのことが走馬燈のように頭をよぎった。
 その姉ももういない。末の娘が幼稚園の時、乳ガンが発見された。この子が大きくなるまでは絶対に死ねない、自分と同じ悲しい目には遭わせたくない、とがんばった。医者の予想をはるかに越え、8年後に亡くなった。娘は中学生になっていた。
 冷戦構造が崩壊し、核の時計が多少後戻りしたとはいえ、民族紛争など局地紛争が頻発し、今も多くの孤児が生まれている。民族・宗教・イデオロギーの違いを乗り越え、平和共存できないものであろうか。多様な価値観をお互いに認め合う寛容さが求められている。子らに悲しい思いをさせないために。

(1996.11.9 稿)


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更新日:1997年8月19日