岩松 暉著『二度わらし』19


モンゴル随想

 ゴビ砂漠横断の旅をした。飛行機で南ゴビまで飛び、四駆で北上したのである。首都ウランバートルを除いて、モンゴルのインフラ整備は決定的に遅れていた。どんなに地下資源が豊富でも、内陸国の悲しさ、輸出にはコストがかかり過ぎ、国際競争力がない。その上、道路網がまったく未整備である。幹線道路といっても草原に幾筋かの轍が付いているに過ぎない。ちょっと雨が降ればワジは越えられない。簡易舗装にせよ道路建設が急務だと思った。
 しかし、首都に近づくにつれ、ゴビとの格差が目に付き、考え込まされた。南ゴビでは遊牧民一家の心温まる大歓待を受けた。砂漠では貴重な水をラクダでタンクに運び即席のシャワーを作ってくださったり、臨時の水洗トイレまで作ってくださった。夜も貴重な焚き木を燃やしてのファイヤーパーティー、ハーモニカの伴奏で歌い踊った。これには本当に感激した。小さな子供までが一人前の労働力としてラクダの世話をし、家族助け合って暮らしている。ご主人も皆と別れるときには奥さんを膝に抱いてトラックに乗っていった。仲睦まじいご夫婦だった。
 一方、首都に近づくと、道路脇には空き瓶のポイ捨てが目立ち、モラルの低下を示していた。市内にはストリートチルドレンがあふれている。市場経済化に伴なう貧富の差の増大と離婚の増大によるのだという。モンゴル人は草原の民、視力のよいので有名だったのに、小奇麗な身なりの金持ちの子にはメガネが多い。テレビゲームのせいか、受験勉強のせいか、日本と何ら変わらない。もっとも社会主義時代の名残もあり、ホテル従業員はお役人的でサービス精神などまったくない。一介の旅行者の皮相な観察かもしれないが、社会主義と資本主義の悪しき面がごたまぜにあるという印象だった。
 さて、この両者をハイウェイで結んだらどうなるだろうか。太古からの自給自足に近い砂漠の民の生活は消費経済の荒波に飲み込まれ、純朴な人々の心がすさんでいくのが目に見えるようだ。わが国でもついこの間まで、開発イコール善と何も疑わず高度成長・列島改造に狂奔してきた。バブルがはじけ我に返ってみると、山紫水明の国日本は昔話となり、少年犯罪が増え、一億イライラ、「真の豊かさとは何か」と問われている。この苦い経験をモンゴルで繰り返してはならないだろう。砂漠の民の心豊かな生活を壊さないで、全体として生活水準を上げていく方策はないものだろうか。その模索は、また、わが国の今後の開発のあり方にも通じる。「持続可能な開発」と口で言うのは易しい。自然と調和した住民主体のアメニティー空間の創造、これを具体化することが応用地質学に課された今後の課題であろう。われわれモンゴロイドの父祖の地、モンゴルでこんなことを考えた。

(1998.7.26 稿)


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更新日:1998年7月26日