[地質調査こぼれ話 その11]

弁士中止! 解散!!―木村先生の教育方針―


 4年になる。いよいよ講座分け。駒場の木村敏雄先生(現名誉教授)が,本郷の理学部教授になられて,構造地質学の講座(第U講座)を新たに開講された。駒場時代の親近感からU講座を選ぶ。それに岩石学のような華麗な体系が既に出来上がったところでは,私のような頭の悪い者はとてもついて行けない。新しい分野ならどんなにレベルが低くても,最先端として通用するかも知れない,とのずるい考えもあった。100のところに1プラスしても誰も評価してくれないが,0のところならば認めてもらえるのではないか,というわけである。当時,地質学教室のあった理学部2号館1階の中廊下にはU講座とW講座(古生物学)とが同居していた。幸か不幸か中廊下を選んだのは私一人だけであった。したがって,構造地質の最初の学生という巡り合わせになっただけでなく,層序系2講座を通じてたった一人の学生という次第になった。
 講座に配属されると講座談話会がある。いわゆるゼミナールである。論文紹介やフィールド報告が行われ,他講座の人にも公開されていた。メンバーは木村先生・助教授の佐藤 正さん(現在筑波大)・助手の山下 昇さん(現在信州大)・杉村 新さん(現神戸大名誉教授)のスタッフと,院生の杉田宗満さん(岡山大・故人)・恒石幸正さん(現在東大地震研),それに学部4年の私の総勢7名である。
 ある時,私にスピライトの論文が与えられた。現在のオフィオライトのことである。オフィオライト問題が地質学界でクローズアップされる10年も前に,木村先生はその重要性を認識しておられたのであろう。その頃の私は,なんで岩石学講座でもないのに火山岩の論文を読まされるのか不審に思った。しかもドイツ語である。Spilitとはそもそも何ぞや。Spilit,spirit,精神,亡霊? 標題からしてわからず辞典を引く。当時は,戦前の地学辞典(旧版)しかなかった。駒場時代ドイツ語をサボった報い,天罰てきめん。ちっともわからない。おまけに古典造山論の素養がないから,チンプンカンプン。ともかく辞書と首っ引きで,横文字を漢字に置き換える。後はそれを適当に並べ換えて何とか和文にする。しかし,意味は全然通じない。そうこうするうちに,談話会当日となる。覚悟を決めて会場の小藤記念室へ。小藤先生の銅像がグッとにらむ。たどたどしく話し始める。終始下を向きながら。突然,「岩松君!キミ!!」とカミナリ。大体木村先生があだ名を呼ぶときは安心していてよいが,本名を呼ばれたときは危険信号である。ドキッとして顔を上げる。案の定,続けて「自分でわからんことをしゃべられては,聞いているほうはもっとわからん! みんなの時間を何だと思っているんだ。ここにいる人の貴重な時間を1時間,合計6時間無駄にした。今日は中止!! 来週やり直し!!」と,憤然と席を蹴って帰られた。院生たちが,「木村さん,イライラしながら,あれでも1時間近く聞いていてくれたんだよ。」と変ななぐさめ方をしてくれる。当時の木村先生の教育方針は,「教育とは自尊心を傷つけることなり。負けずに刃向かってきた奴だけがものになる」というものだったように思う。獅子はわが子を千尋の谷底に突き落とす,故事そのままである。
 その後,徳山 明さん(現在兵庫教育大)がドイツから帰国。若手助手は味方と思いきや全然逆。当時はコピーが発達していなかったから,原本を借りっぱなしにしておけば先生方の目に触れない。そこで,“Geologische Rundschau”を借り出しておいて,安心してゼミに臨む。わからなかったところは飛ばして,わかったところだけトビトビに説明する。あにはからんや,徳山さんは会員とかで私物を持っておられ,机の下で目で追いながら聞いている。助手だから弁士中止!はやらない。その代り,発表が終わると,飛ばしたところだけを質問してくる。完全に作戦はずれである。ゼミは冷汗脂汗の連続,とにもかくにもキビシイキビシイ談話会だった。


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更新日:1997年8月19日