[地質調査こぼれ話 その10]

ハプニング続きの長期巡検


 どこの大学でも野外巡検は必修のところが多い。東大でも,卒業までに最低20日間,各講座の巡検に全部参加することが義務づけられていた。進学直前の2年春休みと,3年の冬休みの2回は1週間程度の長期巡検,他は日帰り〜2泊程度の短期巡検である。故久野 久先生からは伊豆の火山,木村敏雄先生(現名誉教授)からは新潟の油田褶曲と石油,花井哲郎先生(現名誉教授)からは中国・四国という工合。一口に露頭観察といっても,専門によって目のつけどころ,勘どころが違うものだと実地に体験できた。各種の岩石やいろいろな地質現象を,それぞれの専門家について見学できたことは,後々大変ためになった。また,講義室では見られない先生方の人間性にふれることができた。すべての講座で巡検を主催するのは非常に意義があると思う。
 何といっても一番印象に残っているのは3年冬の長期巡検である。柳井の領家変成岩を振り出しに,河山鉱山・秋吉台・高島炭田・串木野金山・桜島と中国・九州を一周した。指導は故渡辺武男先生と大久保さん(現島根大名誉教授)。他に院生の恒石幸正さん(現在東大地震研)とビルマからの留学生ラ・ティンさんも参加した。12月23日(日)柳井駅に朝8時半集合。東京発の夜行列車に合わせてある。旅行は景色のよい昼に限ると,朝出発したのが悪童たち5人。広島に着く。集合時間に間に合わせるには翌早朝出発しなければならない。駅前の一番安い宿を探す。不思議なことに食事は出さないとのこと。皆で街に繰り出す。広島名物蛎を食わない手はない。酢ガキが一番うまいと食通ぶったのが4人。むろん,私も入っている。宿に帰り,部屋に落ち着いてみて,はじめて気がついた。連れ込み宿(今のラブホテル・ファッションホテル)である。食事が出ないわけだ。皆で壁に耳を当て,息をこらす。
 初日の領家はあまり憶えていないが,岩国の錦帯橋はきれいだった。翌日は日鉱の河山鉱山の見学。当時は金ヘン景気の延長だったのか,どこの鉱山も活気に満ちていた。中でも,地質屋さんが主流として大活躍,この鉱山は俺たちでもっている,新しい鉱床をどんどん探してきてやると,意気盛んであった。先輩たちがいきいきと働いている姿を見ることは,卒業後の自分の姿と重なり,おのずと勉強に身が入る。やはり,巡検コースの中に現場を入れておくことは大変よいことだと思う。宿舎に帰ってくると,M君がお腹が痛いという。彼だけ鉱山の診療所に預け,秋吉台めざして出発。車中,ラ・ティンさんからビルマ語を教わる。日本語と同じ語順で述語が最後とのこと。4日目は,軍艦島と呼ばれる人工島の端島炭坑を見学。熱い。出てから鼻をかむと真黒。耳の穴まで黒い。宿に電報が待っている。M君真性赤痢と判明,一緒に蛎を食った奴は逮捕せよ。保健所に連れて行かれ,お尻にガラス管を突っ込まれてボーリング。コアの鑑定(検便)結果が出るまで,使った食器は熱湯消毒する由。4人だけ別室で,うなだれてわびしく飯を食う。
 幸い全員無事釈放され長崎へ上陸。半日の自由行動。留学生を案内して観光バスに乗る。彼,ガイドさんを「おばあちゃん」と呼ぶ。注意すると,ビルマでは13〜15才が適齢期,20才過ぎたらおばあちゃんとのこと。「日本ではまだ子供だよ。」「Yes,日本のQuaternary(第四紀層),volcanoいっぱい。きたない。ビルマきれい。」 もちろん,日本の第四紀には火山がたくさんあることとかけて,日本の少女にはニキビが多いと言ったのである。ニキビなどという言葉は知らなかったが,チャンと意味は通じた。こちらもM君が赤痢になったことを説明するのに四苦八苦。蛎は学名Ostoreaでわかった。赤痢の英語がわからず、アメーバがどうのこうのというと,目をパチクリ。地質屋同士の珍英会話。長崎国際文化会館原爆資料室では,ロザリオの鐘で有名な永井 隆博士の掛軸が強く印象に残った。次の歌に博士自筆の絵が添えてあった。
 「おさな子は 母の口ぐせそのままに こけし抱きしめ いいきかせおり」
いずれみなしごになるであろうわが子を思う父親の心情が痛いほどわかる。私も幼くして母を亡くし,父が外地から帰るまで姉と二人きりになったことがある。言葉に言い表せないような感銘を受け,歌を地形図の余白にメモした。
 串木野鉱山では,斜坑をおりるときの渡辺先生のスピードにビックリ。夜は芸者が出ての大歓待に,またビックリ。当時は金ヘン景気の名残,鉱山会社は潤っていた。「卒業後はぜひわが社へ」と歓待してくれたのである。渡辺先生が座布団を5枚重ねて座り,皿回しの隠し芸を披露された。桜島は鹿大の露木利貞先生のご案内。私の前任者である。奇しき縁かな。
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更新日:1997年8月19日