[地質調査こぼれ話 その12]

五里霧中,絶望―卒論フィールド―


 幸か不幸か木村敏雄先生(現東大名誉教授)の最初の学生として,初めて構造地質プロパーの卒論を書く巡り合わせになった。その頃の造山運動論は,生層序学に基づいて不整合の時間間隙の大きさやその地域的広がりを認定し,造山運動の規模や性質を論ずるといった,いわば層序学的造山論であった。先生は,造山運動というからには,変形論的な側面が不可欠であるとして,小構造解析の重要性を提唱されておられた。そういう意味では,造山運動のタイプロカリティーをもう一度見直してみる必要がある。北上山地気仙沼は化石が多産して地質がよくわかっており,不整合もたくさん存在する。地質調査所の地質図幅が出たばかりだし,大島造山運動のタイプでもある。卒論フィールドとして気仙沼の綱木坂向斜がよかろうということになった。
 4年の4月(1963年),先生と初めて気仙沼に行く。スレート劈開と層理面の区別,小褶曲の見方など実地に教わる。よい露頭でじっくり観察することの重要性を力説され,「地質屋は露頭で勝負するのだ」と諭されたのが,強く印象に残っている。不整合の露頭では,「今までは化石から造山運動を論じていた。お前は変形の“化石”(変形した化石ではない。変形作用の証拠の意)を探し出し,運動の具体的物理的中身を明らかにせよ」とのお話があった。3日後,先生だけ帰京され,1週間ほど残って概査を行う。上部ジュラ系で層面滑りを伴う曲げ褶曲の露頭を発見。二畳系の劈開褶曲と全く異質である。ハハーン,これが古生代末の造山運動(本州造山運動)と白亜紀の大島造山運動の違いだな,と納得してハレバレと帰京。
 夏休み,いよいよ本番の調査である。スレートしか分布していず,地質図作りには役立たない沢も,小褶曲を求めて歩く。三畳系はもとより,中部ジュラ系にも劈開があり当惑する。後三畳紀にも軽微な不整合があるから,その時の造山運動も変形様式は劈開褶曲だったんだろうか。それなら二畳系は2度劈開褶曲を受けたはずだから,2方向の劈開があってもよいはず。せっせと劈開の方向を測定する。しかし,方向は常に一定,2方向の劈開によって形成されるというペンシルチップもない。それにジュラ系の中に劈開褶曲と曲げ褶曲が共存するのはどう説明するか。大島造山運動は曲げ褶曲ではなかったのか,頭の中が混乱する。旅館のお嬢さん(薬科大生)が帰省してきて夏祭りに誘われる。行く気がしない。ゼツボー。
 それでも毎日やみくもに歩く。小さな汽船(渡し舟?)で唐桑半島へ。砂浜に寝転んで,沖の蛎養殖イカダをボンヤリ見ながら考える。どうも教科書的に不整合にこだわり過ぎたんではないだろうか。劈開だけに注目すると,古生層と中生層は漸移するように思えてならない。しかも,古いほどよく発達している。方向が同じところをみると,どれも大島造山時に形成されたとしてもよいのではないか。では,劈開が二畳系のほうによく発達しているのはなぜか。古いせいだろうか,それとも向斜の翼部のせいだろうか。そうだ,軸部で,かつ二畳系の分布するところを調べればよい。翌日,汽車に乗って隣町の矢作へ行ってみる。綱木坂向斜の北方延長である。唐桑と同様,二畳・三畳系に劈開がよく発達している。やはり,古いせいらしい。時代のせいか? それなら西南日本の古生層にも劈開があってもよいはず。巡検で見た四国の古生層にはなかった。結局,古生層は造山時に埋没深度が深く,温度圧力条件が高かったから,より延性的な変形をして劈開ができやすかったのだろうという考えに到達した(ずっと後になって,新潟の新第三系で得られた3,500mのボーリングコアからスレート劈開が発見され,この考えは実証された)。気仙沼に帰る汽車の中での話である。当時,都城秋穂さん(現在ニューヨーク州立大)の講義で,盛んにPT,PT(温度と圧力のこと)と聞かされていたのが,この発想の背景にあったのかも知れない。今度はその目でもう一度フィールドを見てみる。中部ジュラ系で曲げ褶曲と劈開褶曲の中間形態を見出す。互層中の頁岩にだけ劈開が入っていて,砂岩は平行褶曲の形態をしているのである。劈開の発達程度だけでなく,小褶曲の様式も,二畳・三畳系の劈開褶曲から中部ジュラ系の中間様式を経て,上部ジュラ系の曲げ褶曲へ移化している。つまり,同じ大島造山運動を受けても,深いところは劈開褶曲,浅いところは曲げ褶曲と,温度圧力条件に応じて別なタイプの変形をした。異なった変形様式イコール別の造山運動,ではなかったのである。これでスッキリしたとホッとする。ところが,大島へ渡ってみると,上部ジュラ系ばかりか白亜系にも劈開があるではないか。ヤレヤレ,見てはいけないものを見てしまった。またもや暗転。しかし,これは,綱木坂向斜が閉じた褶曲のため,軸部で地層が直立して層理面と褶曲軸面とが平行になり,層理面に平行に堆積した砕屑性の雲母片が,一見劈開状に見えるのであろう(実際はその効果の他に,褶曲軸部のほうが歪量が大きく劈開が発達しやすかったのである)と,苦しまぎれの解釈をして帰学した。
 早速,先生に報告する。「君は不整合をどう考える。陸化浸食があったことは確かだろう」と詰問され,絶句。不整合の始末まで考えていなかったからである。「北上は石灰岩相だもの,地向斜の縁辺部で浅かったんでしょ。海水準が少し変動すれば,チョコチョコ顔ぐらい出しますよ」と,捨てぜりふを言って退散した(その後,コノドントが発見され,秩父地向斜=本州地向斜の主部は中生代まで引き続き海の状態であったことが明らかになった)。不整合問題でこれ以上いじめられなかったところをみると,先生はどうも私の結論を予測しておられたふしがある。名誉教授の小林貞一先生が,古生代末の館の変動は造陸的性格であると,既に指摘しておられたからである。また,その頃地質調査所の神戸信和氏も日本中の二畳三畳系境界問題を検討され,どこでも整合か平行不整合であるとの結論を出されつつあった。しかし,9月末には大学院入試がある。木村先生はともかく,現地を見ておられない他の先生方をいかに納得させるか。深さと共に劈開の発達が良くなると,定性的に言っても説得力に欠ける。入試の1週間前になって,顕微鏡で劈開の密度(単位長さ当りの劈開数)を測ることを思いつく。徹夜で測定。グラフにプロットしてみる。地層の層厚を深さと仮定すると,見事に傾向が出るではないか。この時のうれしさは忘れられない。こうして褶曲の構造階層の話がまとまった。
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更新日:1997年8月19日