[地質調査こぼれ話 その3]

渡渉・ヤブこぎ=地質屋への第一歩

―東大駒場・地学片山ゼミと石くれ会―


 地文研の連中は,部室が地学実験室にあったため,年中地学教室に入り浸りだったから,教室の準レギュラーメンバー。3時のティータイムには,学生の分も用意されていた。顔を出しても,「授業はどうした」,などととがめる先生は一人もいない。話の内容はあまりわからなかったが,学問的雰囲気が心良かった。地文研のコンパにもスタッフ全員参加してくださったし,湊 秀雄先生や木村敏雄先生(現名誉教授)からは,渋谷の恋文横丁によく飲みに連れて行っていただいた。地学教室が木造平屋建,学生数も今の半分という古き良き時代の話である。
 それでもマスプロ教育の弊害が叫ばれ,各教室で無数の小ゼミが開かれていた。地学では,その他,年3〜4回の泊がけ巡検も行われ,全国各地へ連れて行っていただいた(その5参照)。自由参加である。地学ゼミは,岩生周一先生(現名誉教授)の原書購読や湊先生の鉱物顕微鏡など多種多様だった。中でも片山(現名誉教授)ゼミは毎日曜野外調査という,他教室にないユニークなもの。ゼミのイメージとはかけ離れていてひどく驚いた。相模湖から上野原にかけての地質,とくに段丘調査がテーマである。「学生と山を歩くのはボクのゴルフだよ。健康法さ。ハハハ…」と実にお元気である。まず最初は基盤調査。道路ではなく,専ら桂川・鶴川などの川筋を歩く。西桂層で見つけた貝化石が,自分と同じAcilaという名前だと聞いて感激したり,御坂層からオパールを採集しては,指輪にしても贈る相手のいないことを嘆いたり,ワイワイガヤガヤ進む。総勢10名。そのうちに河原が尽きて行けなくなる。今日はここでおしまいか,と引き返す学生たち。先生のほうは知らん顔で,ジャブジャブ水に入って行かれる。これにはビックリ。あわててズボンをまくり,靴を脱ぐ。さすがに2年生はそのままのスタイルで川の中へ。露頭の前で,先生すまして曰く,「君,渡渉は地質屋の第一歩だよ。気持いいだろ!?」。次は,いよいよ段丘調査。比高100m,崖が高くてとても近づけない。谷頭浸食(head erosion)の水無沢を見つけて遮二無二登る。イバラが痛い。息がきれる。やっと沢の頂部に着き,礫層が見えてくる。と,どういうわけか,決まってゴミ捨て場,異臭が鼻をつく。ヤレヤレ,露頭探し=ゴミ捨て場探しである。もう第四紀層の調査はこりごり。それにしても先生の熱心なこと。とても50過ぎとは思えなかった。
 しかし,片山ゼミで一番思い出すのは,何といっても昼休みのこと。まず河原で流木を集めてたき火をする。濡れた靴下を干し,ぐるりと輪になって弁当を食べる。当時,東大生の7割は地方出身だったから,学生たちの弁当はほとんど駅弁。先生だけがニュームの弁当である。のぞきこむ。卵焼をいただく。食後,先生が兵隊水筒を回される。甘い。紅茶である。疲れたとき,この冷たい紅茶が実にうまかった。この紅茶の味が忘れられなくて,毎日曜出席する。とうとう地質が病みつきになり,理学部地学科地質学鉱物学コースに進学する羽目になった。医学部進学を望んでいた親父は,烈火のごとく怒る。私が道を誤った(?)のは,以て片山先生の紅茶のせいである。
 他の先生方のゼミや実験にも顔を出した。それぞれ個性的で楽しい。私だけでなく常連ができる。地学ゼミの同窓会まであった。「石くれ会」という。年に一度の大コンパには,地学教室のスタッフばかりでなく,OBである本郷の先生方や官庁・民間会社の中堅どころがたくさん集って,伊東屋の2階で無礼講の大騒ぎをやった。先輩たちのスピーチも耳学問になる。鉱山で新鉱床を発見した話や,新幹線の路盤補強の苦労話などが印象に残っている。中には読売新聞の科学記者をやっている故伊佐喬三さんのような変り種もおられた。私たちのときには,丸山健人くん(現在気象研)と一緒に会報まで出した。近況を知らせる返信用ハガキを同封したら,ビックリするほど回収率がよい。みんな懐かしそうな心のこもった返事をくださった。卒業してからもこんなに慕われている教室は他にはなかったのではないだろうか。良き師良き友に恵まれ,幸せに思う。
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更新日:1997年8月19日