[地質調査こぼれ話 その2]

東大地文研


 60年安保の前年,私は東京大学教養学部に入学した。いや,東大地文研に入学した,といったほうが正確である。さっぱり勉強せず,教室よりも部室(地学実験室)のほうにせっせと通ったから。地文研は「ちもんけん」と読む。天文・地文・人文の地文である。死語が生きているとは,さすがに古い大学。正式には東京大学地文研究会という。勧誘されるまま何気なく入った。なぜ入ったかよく憶えていないが,石油技術者の子として生まれ,石油地質屋さんたちに可愛がられて育ったから,地学に親近感があったのだろう。
 地文研には天文・気象・地理・地質の4班あった。地文学の研究―実態はハ ンマー持った旅行同好会。日曜日などにはよく全班合同の巡検をやった。当時,学割は完全に5割引で,子供料金でどこへでも行けた。発行枚数に制限があったが,地文研だと地質の研究という名目で,無制限に発行してくれる。この特権を利用してあちこち遊びに行ったのである。平常は地学教室(現在の宇宙地球科学教室)にたむろして,ソフトボールばかりやっていた。時には教室メンバーとの対抗戦もあった。片山信夫・岩生周一・湊 秀雄・木村敏雄の4先生(現名誉教授)と高野幸雄さん・堀福太郎さん(日大文理・故人)・伊藤和明さん(現在NHK)・中村一明さん(東大地震研・故人)の4助手プラス事務の宮田(現姓土田)さん,合計9名がオールスタッフ(小尾信弥先生は在米)だから,全員出場である。伊豆大室山の巡検の際,山頂火口の中でソフトをやった記憶がある。すり鉢型のスタジアムの中でプレイしているようで,気分が良かった。もちろん,コンパもしょっちゅうやっていた。
 私は地質班に所属した。主要な活動は,日曜や夏休みにフィールド調査をして,秋の駒場祭に発表することである。1年のときは,たまたま奥多摩の小袖に鍾乳洞が発見されたので,早速,洞内調査を行うことになった。今でいうケイビングである。ザイルの使い方を教わったり,キャンプをしたりして楽しかった。一応曲がりなりにも洞内地図を作ったが,後日,「東京大学調査」などと看板にペンキで書かれていて苦笑した。
 翌年は丹沢の調査を行った。今度はこちらが2年生,責任がある。どうしたらよいか,木村先生のところに相談にうかがった。「ひとつ何も文献を読まずに行って,曇のない自分の眼で見てきてごらん。」とのアドバイスがあった。何しろ正式な地質調査法など習ったことがないのに,見様見真似の調査だから,どうしてよいかわからない。そのうちに,同じ足柄層の礫岩でも,白い石英閃緑岩礫の入っているものと,入っていないものとがあることに気づき,それを基準にして上部層と下部層に分けた。帰って木村先生に報告したところ,「でかした。それは丹沢石英閃緑岩体の隆起と削剥の過程,つまり,丹沢造山の後半の歴史を示しているんだよ。」とおだてられ,大変うれしかったことを憶えている。
 地文研は,こうした学問の真似事を通じて,学問の魅力への橋渡しをしてくれたように思う。それ故,地文研出身者の中には研究者になる者が多く,今日の天文学・気象学・地質学・地理学の各分野を背負って立つそうそうたる学者が輩出した。私たちと一緒に活動した同世代の仲間たちの中にも,学位を持っている人が10人以上いる。
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更新日:1997年8月19日