『越後岩松家私史』

岩松一雄


はじめに

 越後岩松家では祖父の左内が常々誇りを以て、「先祖は上州新田党の武将で六十里越を経て山伏姿で越後に下向し、新山村に移住して以来三百年代続いた家柄である」と孫一雄(五才頃)に語っていたが、出自までは聞き及ばなかった。
 しかし岩松家系図などは位牌所東光寺が亨保九年(一七二五)炎上の折焼失、その後家宝や古文書は明治の中葉左内が新田開墾と水力発電の失敗で破産した混乱期に悉く散逸し、現在は舊邸内持佛殿の本地薬師如来像が伝わるのみである。
 その後絶えて家系調査の機会がなかったが、昭和卅四年(一九五九)に東光寺本尊の県文化財申請が却下されたと住職小杉師から相談を受けたので、一雄は県文化財保護委員の西田彰一新大教授に照会した結果、却下の理由はあのような優品には勧請にまつわる伝承があるはずのところ、東光寺佛にはその点詳らかでないために保留となった由であった。
 西田教授には東光寺は岩松家の氏寺として中世に勧請されたことを説明し翌年指定となったが、このため背景をなす岩松家譜明確化の必要を感じた。
 この時以来機会を求めて史家に垂教を乞い、「岩松氏は清和源氏足利流であり上野國新田荘岩松郷の地頭にして、『姓氏大系お』よび『荘園志料岩松文書』に詳しいこと、また越後岩松家戒名は修験道最高位であり、また東光寺佛は僻地に珍しい優品である」などの指摘を受け新田氏族の研究を勧められた。
 また知人の紹介で東大名誉教授平泉 澄先生に岩松家口伝の信憑姓について文書で質問したところ、「岩松氏は新田一族であり名家であることはよく承知してゐます。乱離の世に岩松氏が山伏となって移住転居し、また人目を逃れたことはいかにもありそうなこと自然でうなずけます、云々」の御回答を得た。
 これに勇気づけられ爾来廿年余史籍の渉猟を試みたが、永年にわたって南北朝の抗争渦中にあったので『岩松正木文書』以外史料に乏しく障碍であったが、大正期歴史学者による多くの新田氏研究書に貴重な示唆を受けた。
 これらの志料に基き一雄は息暉を帯同して遠祖の地群馬県新田郡尾島町に、岩松氏舘趾碑、位牌所東光寺、岩松八幡宮など繁栄の跡を踏査した。
 また一雄と暉は『奥相志』に記す義政入部説を調査のため、福島県相馬郡鹿島町を訪ね猪狩教育長のご案内で踏査し、『寛政家譜』の義政生害説の誤伝を確認した。
 しかし『奥相志』に據れば、岩松義政この地に於て病死するや幼君義時家臣に謀殺され、岩松氏之れにて亡ぶとして悲運の義政父子および夫人の遺蹟と供養塔が残り、今でも岩松公の尊称を以て子孫にこの哀話を語り伝えている。
 しかしながら郡山在八幡の護國寺には何故か鹿島町阿弥陀寺蔵と同じ岩松系図があると聴き、一雄は同寺を訪ね慶長年間に炎上し今は伝ふるものなきを知ったが、八幡村は会津から越後を経て信州に至る善光寺街道筋にて六十里越に近く、はからずも岩松家の口伝と地理的に符合することの奇縁に驚く。
 これにより伝えられる岩松四天王による若殿謀殺も、義政歿後相馬方の執拗な謀略が頓に高まり、対応策に窮した重臣ら謀議の上義時を海に投じたと偽装して越後へ落し、家臣一同は相馬方に投降した推測も成立するため、『奥相志』は約三百年後に相馬藩の編纂である以上、相馬方の併呑工作を粉飾した疑惑が濃厚となった。
 之れにより「岩松義時難を越後へ避けて中野俣に至り越後岩松家を興した」とする假説に関して、一雄はその真実性を追究するため昭和卅年(一九五五)の中葉以来史料の渉猟と史家の教示を乞ふなど慎重を期して調査に当った。
 その間信憑性の高い藤島神社蔵板『新田族譜』をはじめ、國学者諸権威の新田氏族研究書などから、岩松義政生害は世良田義政の誤伝であること、また義政病歿後嫡子義時にまつわる蒲庭浦の悲話は有能な家臣団の偽装工作なりと確信するに至ったので、稿を起し専門家の校閲を得て版に付し岩松氏一族に伝えることとした。
 この間御教示いただいた次の諸先生に対し深く感謝の意を表したい。
東京大学名誉教授 平泉 澄先生
新潟県社会教育課長 宮 栄二先生
栃尾市教育長 菊地政治先生
栃尾市文化財審議委員長 那須正丘先生
新潟大学教授 古厩忠夫先生
新潟市史編纂委員 山下隆吉先生
福島県鹿島町教育長 猪狩三夫先生

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更新日:1997年8月19日