『越後岩松家私史』

岩松一雄


一、岩松氏の出自と足利並びに新田氏との関係

 越後岩松家の出自は清和源氏新田統との伝承があり、『梅松論』と『新田族譜』および『岩松一族系譜』でも新田流としているが、『日本外史』は「足利氏より出ず」とある。
 また岡部精一『新田氏の盛衰』では「岩松氏は足利氏の流なり」と断じ、これに対し太田稲主『上野國新田郡史』には「諸書以岩松氏、為足利氏分族者、大誤謬而」と主張しおり、因にこの見解の相違は岩松氏が足利と新田本宗の婚姻によって成立したもので、藤田 明『新田郡歴史地理』では「寧ろ足利氏に近い系統」と述べている。
 すなわち『寛政重修諸家譜』には「足利上総介義兼の嫡男太郎義純は父の勘気を蒙り上野國新田荘に至る、新田大炊介義重朝臣之を愛で嫡男大炊介義兼の女来王御前を配し二子を儲け、長子を太郎時兼次子を田中次郎時明と云う。時兼は母新田尼(来王御前)の所領を継ぎ新田荘岩松郷に住し岩松氏と称す」と足利統を明記している。
 また藤田精一は著『新田氏の研究』において「岩松氏は足利本宗と新田本宗との結合によって創立されぬ、すなわち足利義康の孫義純と新田義重の孫娘来王御前との成婚これなり、蓋し岩松氏は新田本宗の領地より分族樹立せしものなれども、新田氏とは外戚の関係に立つものなり」と詳述し、『日本外史』と同様足利統なりとしている。
 抑々岩松氏遠祖源義家の第二子源義國は「久安六年(一一五〇)上洛の途次右大臣大炊御門実能参内の行列に行逢ひし折義國下馬せず、依て実能の従者義國を馬より打落せり、義國の郎党憤りて右府の豪邸を焼く、事叡聞に達し義國罪を得て下野國に下向久安元年(一一四五)剃髪し鬼足利と称せらる」と『吾妻鏡』に見える。
 その頃すでに足利の地には藤原秀郷六世の孫、大夫成行数千町を領掌していたので、義國はこの藤姓足利氏を頼りこの地に下向した。
 源義國は藤姓足利敦基の女を娶り、義重と義康の二子をもうけ、総領義重は母の領を享け、保元二年(一一五七)上野國新田荘の下司職に任ぜられ新田氏を、また弟義康は足利荘で源姓足利氏を創立したので義國は両家の祖である。
 これにより下野國足利荘には、藤姓足利氏と源姓足利氏が併立したが、後に藤姓足利俊綱は女性の事で不首尾となり、小松内府平重盛に哀願して舊領安堵を得しも源平の戦いが起るや、源頼朝に攻められて藤姓足利氏は根絶し、このため足利および 新田氏共に源姓を以て上毛の地を支配した(岡部精一『新田氏の盛衰』)。
 やがて足利義康の二男義純は新田義兼の女来王御前を娶り、嫡男時兼は建保三年(一二一五)母来王御前(新田尼)より新田荘岩松郷を譲られ、嘉禄三年(一二二六)地頭となり茲に岩松氏を創設した(写真:新田岩松氏館第故址、現三菱電機群馬製作所内)が、岩松遠江守時兼の采地は『岩松文書』において
 将軍家(実朝)政所下、上野國新田荘内十二箇郷住人可令早々、源時兼為地頭職事、田島郷、村田郷、高島郷、成墓郷、二児墓郷、堀口郷、千歳郷、薮墓郷、田部賀井郷、小島郷、米沢郷、上今居郷。
 右件郷々 任蔵人義兼後家所進之注文、補任彼職。於有限之年貢課役者 任先例可致沙汰之状所仰如件。
 建保三年(一二一五)三月廿三日
とあり、また時兼は母新田尼よりこのほか春原荘も譲られている。『岩松文書』に曰く
 譲り渡す上野國新田御荘内屋敷、岩松郷並に春原荘内万吉郷問事源時兼。右両郷譲り渡す事実也。
 但し子々孫々まで全く他の妨げあるべからず、仍譲渡事如件。
  貞応三年(一二二三)正月廿九日         新田尼
 春原荘には万吉、渋江、小泉、秀泰、蒲田、加治、糯田、片柳、小林、手基、得永名などの郷があり、また陸奥國行方郡千倉荘は相馬能胤から娘土用御前に譲られ、土用御前岩松時兼に嫁し化粧料として岩松領となり、代官によって治めた。
 譲り奉る土用御前の所知の事
行方郡千倉荘加比草萱定、御厨のうち布施、藤意、野毛崎以上五箇所也。
右の所は土用御前の領地として女房の沙汰得べき事実也、嫡子嫡男といふ妨げをいたすにおきては、いかなる権門にもよせて女房の沙汰たるべし。
依て後日の沙汰の為譲状を奉る事如件。
  嘉禄三年(一二二七)十二月    平 能胤(岩松時兼の岳父)
 また阿波國生夷荘は古文書で承久三年(一二二一)当時から岩松領にして中宮井、沼江、中角、星谷、森、鶴敷地、中山、久國、棚野、横瀬、横河内、坂本、藤川、黄檗、福川、傍示、瀬津、福原、窪、野尻、田野、諸原、一宇、八重地廿四箇郷があった。
 生夷荘は代官によって宰領し、勝浦新庄小松島浦預所では水軍を有し古文書に「阿波海賊の出入につき案文の個條は確かに拝見した。領内の小松島浦の船は定紋唐梅を付けて区別した」との岩松氏から宝治二年(一二四九)六波羅探題への請文が残っている。
 因に当時関東地方の豪族間に広く行われた開墾領の郷苗分族主義により、団結を強固にするため新田開墾に努め支族の扶植を計った時代であった。
 岩松氏本領の新田荘は利根川流域に位し、歴代共治水と公田私田を開墾して郷名苗字制により、遠江太郎時兼の代には長子経兼は本宗を継ぎ、他の六子は夫々村田、田部井、寺井、今井、薮塚、田島氏など郷名を与え分族して、岩松氏は保元元年(一一五六)以来上毛の地で栄えた。
 因に『足利新田譜』に義兼なる同名の人物が見えるが、新田大炊介義兼は八幡太郎義家の次子源義國の長子にて新田氏の祖大炊介太郎義重の嫡子で来王御前の父であり、また足利上総介義兼は源義國の次子で足利氏の祖蔵人義兼の嫡男にて岩松氏祖遠江守太 郎時兼の祖父に当り、両者は同名の従弟である。
 このように岩松氏の出自は、足利氏と新田氏とに対して特別な血族関係から後年武家方に転じたり、応仁の乱では岩松氏を二分して相対する遠因となり、または元弘三年(一三三三)五月八日新田義貞討幕の挙兵に先立ち、足利尊氏は岩松氏に対して事前に北條追討の内書を送ったといわれ、また攻圍軍の義貞勢には目付として尊氏第二子千寿王(四才、後の将軍義詮と旗本二百騎)とを従軍させた事実から、鎌倉攻めは新田兵衛督義貞と岩松兵部大輔経家の両将軍説が生れた。
 すなわち『正木文書』には、「然則追討事者、自将軍家賜御教書、曽祖父兵部大輔経家、並新田義貞為両大将、自令退治以来、御代干今泰平也、子細見現文」とあり、尊氏から元弘三年(一三三三)四月廿二日教書は岩松方に届いたことは確かであるが、尊 氏は西上の途次近江國鏡駅にて綸旨を受領するや、新田と岩松氏両家に密使を立てたものらしいと久米邦武はその著に述べている。
 この挿話は岩松氏の威勢を語るものであり、事実建武中興成るや功によって岩松経家は飛騨守に任ぜられている。(『正木文書』)
 因に新田義貞は正中(一三二四)頃官職名がなく、その地位は尊氏と比べて低かったが、義貞は保元二年(一一五八)私領の一部を摂関家に寄進して新田荘の下司職となったので、義貞はその地位を保持せんと公家政権護持を希ひ武者所入りが遅れ、また源頼朝挙兵には参加を躊躇したことから重用されなかった。(『吾妻鏡』)
 按ずるに義貞挙兵の動機について『太平記』では大塔宮令旨によるとし、『梅松論』は後醍醐天皇の綸旨を奉じたとされ『保暦間記』は尊氏の内書によると区々であるが、『歴史公論』誌では義貞初め令旨を享け帰國して準備し綸旨至って起つとし、また尊氏は綸旨によって起ったが大義に非ず利己打算であると論じている。
 また『大井田家伝書』には、義貞の討幕挙兵の直接的動機について曰く「幕府は新田荘には有徳の者多しとて、元弘三年(一三三三)五月初め義貞の本領世良田の庄家五郎助に使者を以て銭六万貫(米約六万石相当)徴発すとの報に、義貞大いに怒り家人をして使者黒沼と明石の両名を斬る」とあり、この時義貞はすでに護良親王より令旨を拝していたので、好機であったわけである。
 鎌倉まで聞えた新田荘の有徳有福の長者とは岩松氏の財なりといわれ、また義政鎌倉攻めの折は岩松嫡宗の義政は兵站基地上野國の守備に任じ、弟経家を義貞軍の作戦参謀に擬す史家もある。(吉川英治『私本太平記』)
 やがて尊氏謀叛に及ぶや岩松氏は宮方として、岩松経家は次兄頼宥(岩松禅師)と建武三年(一三三五)武蔵國入間郡女影原にて討死した。
 こうして宮方は善戦したが南風競わず、延元三年(一三三九)新田義貞は越前において北畠顕家は和泉で討死し、正平元年(一三四六)楠木正成自盡したので、岩松義政独り本領上野國に留り抗戦を続けたが、その後義政の去就については後章に述べる如き諸説があり史籍から抹消され、岩松正統はこれにて滅ぶとされている。
 また討死した義政弟経家の名跡は遺孤泰家尚幼少のため、祖父政経は三子直國をして後見補佐せしめたが世は漸く南北合体の機運となり、直國は宮方から武家方の足利基氏に随身し、岩殿山の合戦に功があった。(『太平記』卅九)
 観応元年(一三五〇)直國は尊氏より恩賞として義貞方の歿領五〜六万石(壱万町歩相当)を加増されて上毛の豪族となり、それ以降は姓に新田を冠し新田岩松と名乗るのが慣例となった。
 翻て祖を同じくする新田氏は上毛における開墾領主として、分割相続により支族脇屋、山名、里見、鳥山、大井田、大島、田中、大館、細谷、安養寺、堀口、今井、西谷、世良田氏などの支族を生み、上毛および越後に発展した。
 元弘三年(一三三三)後醍醐天皇討伐の兵を催すや、義貞勤王を唱へ一族並に岩松経家など元弘三年(一三三三)五月四日上州を討出て武蔵野で苦戦したが同廿一日鎌倉へ討入り、続く廿五日には少貮、大友、島津の連合軍が鎮西探題を倒した。
 また尊氏は赤松氏と同七日京六波羅を陥れ功があったが、論功行賞に不満な武士達を糾合して謀叛するや、新田義貞は南朝方として延元三年(一三三九)越前國藤島において討死した。(『太平記』、村山隆普『中興政治失敗の原因』)
 義貞戦死するや弟脇屋義助は越前を支ふる能はず残兵を収めて美濃に奔り、続いて伊予に渡り処々で苦戦したが病を得て興國三年(一三四三)國府で歿した。
 また義貞嫡男義顕は延元二年(一三三八)敦賀金崎城重圍の中に自刃し、次子義興(異母弟)も亦武州矢之口渡にて、正平十一年(一三五七)謀られて自害、第三子義宗は宗良親王に従ひ武州小手指原にて敗れて越後に至るも終焉の地知らず、かくて一族は悉く勤王に殉じ新田本宗の後裔は断絶した。
 因に建武中興が僅々二年にして崩壊した原因について、史学者は中世代の政治および経済面から次のように解説している。(久米邦武『南北朝時代史』)
 すなわち後醍醐天皇は公武合体の政治組織の樹立を祈念され、北條幕府を退けて一応建武の親政は成ったが論功にあたり、歿官領は到底行賞の要求に応ずることは、数量的に不足であった。
 例えば、赤松則村は勲功があったにかかわらず左用一荘を賜ることなど、彼に対する薄賞が建武の乱に朝敵に廻ったことは疑いない。  また足利尊氏は武家が公家の下風に就く体勢に失望し、武家政治再興の実現を期せんため、恩賞に対する不平分子を操った張本人であって、朝廷には軍事に暗く時勢を解しない公卿の多いこともさりながら基本的に朝廷の失政はないが、当時の國民が政治的にも経済的にも社会改革に対する自覚の缺如が原因であったといわれ、これ以降は幕藩体勢が定着して明治維新に至った。

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更新日:1997年8月19日