桜島大正噴火100年と記念事業

岩松 暉(南日本新聞時論 2010.8.8)


 イタリアには「ナポリを見てから死ね」という言葉があるという。わが国の「日光を見ずして結構と言うなかれ」と同じ意味だが、現在では「ナポリが死なないうちに見ておけ」という皮肉な意味も込めて使われているらしい。桜島はマグマを着々と溜めつつあり、桜島大正噴火時の八割方回復している。昭和火口も過去最大の爆発回数を更新しつつある。遅かれ早かれ大規模な火山噴火が起こるに違いない。イタリアの諺を他人事として笑っておられない。
 二〇一四年には桜島大正噴火百周年を迎える。その半年前には国際火山学会IAVCEIも鹿児島の地で開催される。内閣府中央防災会議も災害教訓の継承に関する専門調査会が桜島大正噴火分科会を設け、筆者が取りまとめの主査を務めている。もちろん、両者とも大正噴火百周年を意識してのことである。
 主査をしていて感じたことがある。一つは、鹿児島県に公文書館がないためもあって、ほとんど一次行政資料が残っていないことである。もちろん、鹿児島市が空襲で焼かれたせいもあるが、大隅半島でも皆無であった。市町村合併の度に廃棄されたらしい。かえって、軍の動きがすべて防衛研究所に残っており、ネット公開されていた。災害で辛酸をなめられた方々の手記や日記の類もなかなか集まらなかった。読者諸氏のお宅に祖父母の書かれたこうした記録が残っていたらご提供願いたい。また、議会の議事録なども焼失している。当時の議員のお宅に残っていないか調べていただけないだろうか。一方、二次資料も散逸していた。あっても貴重本扱いで貸出禁止であった。
 もう一つは教訓の風化である。さすがに島内では毎年、爆発記念日の一月十二日に総合防災訓練を行っているが、島外の市町村では対岸の火事と思われている。大正噴火時には、高隈山系に大量の降灰があったから、ここを源流とする河川では土石流や水害が十年近く続いた。堤防や堰を修築しては壊され、賽の河原の繰り返しだったらしい。串良川にはその苦労を刻んだ記念碑が三つも残されているが、地元の人にも忘れ去られていた。大正噴火に関連する記念碑は三十五個もあるが、由来不明なものが多い。桜島からの移住者で出来上がった移住者集落だという事実すら忘れかけているところもある。
 確かに毎年のように繰り返される風水害に比して火山災害は低頻度である。土砂災害予知は難しいが火山噴火予知は可能との過度の信頼も背景にあるかも知れない。あるいは過去営々と社会資本整備に努めてきた結果、風水害の犠牲者数は確実に減少してきたので、災害は御上任せといった行政依存体質が形成されてしまったためかも知れない。しかし、噴火予知が百パーセント成功したとしても被災は免れない。地震災害は一過性だが、火山災害は長期に及ぶし、家屋だけでなく土地さえ失いかねない。生活再建が重くのしかかる。その上、降灰被害は広範囲に及ぶ。先頃のアイスランドの火山噴火でヨーロッパの航空路が麻痺したが、桜島の場合にはその比ではないのである。大正噴火の教訓を正しく継承する百周年記念事業を行おうではないか。  記念セレモニーだけでお仕舞いにするにはもったいない。博物館・図書館・黎明館・美術館などが合同の大々的な特別企画展を行っていただきたい。それだけでなく、決定版資料集を復刻して欲しいものだ。今回の調査で発掘した新発見の資料もあることだし、これを埋もれさせるのはもったいない。経験者のお孫さんも高齢になっており、これが唯一最後の機会である。この資料集は富士や浅間が噴いた場合の関東圏にとって、大いに参考となろう。欲を言えば、火山博物館も建設して欲しいものだ。一〇八個の活火山のうち県内には十一個あり、そのうち六火山が今も噴煙を上げている。このような県はどこにもないからである。

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更新日:2010年8月8日