「稲むらの火」に思う

岩松 暉(GUPI Newsletter No.11, p.4, 2005)


 スマトラ沖地震津波災害に遭遇した観光客が続々帰国し、彼らの撮影したビデオが放映されるようになりました。 何と無謀かというのが第一印象でした。奥尻島の津波では、地震時入浴中の人で、裸で飛び出した人は助かりましたが、着物を着てから逃げようとした人は亡くなったのだそうです。 近地地震でタイムラグがほとんどなかったからです。今回の津波でも、恐らくビデオを撮っていて亡くなった方が多数おられると思います。テレビで放映されたビデオの撮影者はたまたま運が良かったに過ぎません。
 音声も入っていました。「海の水がどんどん引いています」とか「大きな波が押し寄せてきます。異常気象です。」などといったナレーションもありました。 海が引くというのは津波の前兆現象です。戦前の教育を受けた人なら誰でも知っていました。小學國語讀本で「稲むらの火」を教わっていたからです。稲むらの火は安政元年11 月5日、紀伊國有田郡廣村を襲った津波の話です。庄屋の五兵衛(本名濱口儀兵衛)は地震の後「波が沖へ沖へと動いて見る見る海岸には廣い砂原や黒い岩底が現れ」たのを見て「津波がやって來るに違ひない」と気づき、とっさに稲むらを焼いて村人に危急を伝えたため、村人は助かったという実話がもとになっています。この美談を小泉八雲が”A Living God”という小説に書き、その和訳が国語の教科書に載ったのです(昭和12~22年)。当時は国定教科書ですから国民全員がこれを学びました。
 もっともこの教科書で学んだ結果、津波は地震後引き波から始まるものだとの固定観念を国民に植え付けてしまった罪はあります。押し波から始まる津波だってありますし、ヌルヌル地震(スロー地震)では地震の前触れなしに津波が発生します。チリ地震津波のような遠地地震の場合にも地震は感じません。
 しかし、「稲むらの火」が果たした役割は大きいものがあります。明治三陸津波(1896)では約22,000人、昭和三陸津波(1933)では3,064人の死者を出しましたが、その後は200人以下に減っているからです。もちろん、ハードの整備などもありましたが、津波知識の普及が果たした効果も大きかったのではないでしょうか。三陸には「地震があったら津波の用心」という石碑があちこちに建っています。昭和三陸津波が到達した限界のところに建てたのだそうです。ここまで逃げてくれば助かるとの教えです。
 先の観光客のナレーションは日本国民が持つ地学常識の水準を端的に表しています。災害列島日本なのですから、もっともっと国民に地学知識を普及する必要があるのではないでしょうか。

ページ先頭|退官後雑文もくじ
連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:2005年1月6日