岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

童話 1


おかあさんの雲

(1)

 ここは台湾,水牛がのんびりとたんぼをたがやしています。
村のまんなかには大きな川が流れ,山では石油井戸がキーコキーコと油をくんでいます。
あきらはおとうさんの顔を知りません。
戦争がはじまるとすぐ,軍の命令で南方に石油を掘りに行ったからです。
でも,やさしいおかあさんとおねえさんがいます。
あきらは,すっかりおかあさんっ子です。

(2)

 今日からあきらも国民学校1年生。
おかっぱを切っていがぐりぼうすになりました。ちょっとおにいさんになった気分です。
ある日,げんかんに男の人が現われました。
「おかあさん,お客さんだよ!」
「まあ,あなたのおとうさんでしょ」
あきらはなんだかはずかしくて,おかあさんのたもとのかげからソーッと見ました。

(3)

 山の村にも戦争がやってきました。
山にはこうしゃほうじんちが作られ,兵隊がたくさん集まりました。
あきらたちはめずらしいものができておおよろこびです。
石油がなければ軍かんも戦車も動きません。
アメリカ軍はきっと石油をねらってこの村にやってくるでしょう。
となりの町はばくだんにやられたそうです。
山の向こうの空がまっかになって,とてもきれいでした。

(4)

「台湾決戦がま近い。そのときは女こどもは自決せよとの命令だ。」
「まあ,ほんとですか」
「こどもたちを台湾人のところに養子にやろうと思うのだが。
 中国は連合国だから,台湾人には危害(きがい)を加えないだろう。」
「でも,日本人がたったひとり生き残っても,どれだけ苦労するか知れません。
 一緒に死にましょう。」
「いや,林(りん)さんのおくさんは内地で教育を受けているし,とてもやさしい人だ。
 きっとかわいがってくれるだろう。」

(5)

 石油鉱場のひろばにおとなたちが集まってラジオを聞いています。
あきらたちはどうしておとなが泣いているのかふしぎに思いました。
戦争は終わりました。
アメリカ軍は台湾をすどおりして沖縄決戦をやったのです。

(6)

 ひきあげがはじまりました。ともだちがすこしずついなくなりました。
「内地はすごくいいところなんだってよ。りんごが取れるし,雪も降るんだって。
 ボクたちもかえりたいよう。」
よく年の3月,おかあさんとおねえさんと3人でひきあげました。
おとうさんは台湾人に石油のとりかたを教えるために残されました。

(7)

 おとうさんのいなかは新潟の栃尾町です。
やっぱり町のまんなかを大きな川が流れ,山にかこまれています。
台湾ににていて,あきらはすっかり好きになりました。
いなかの家にはおばあさんの他に,おばさんやいとこたちが8人もいます。
おじさんは満州に開拓(かいたく)に行ったままゆくえ不明です。
ひきあげのとちゅう,大連で死んだことがあとでわかりました。

(8)

 みんなで12人もいるのに,働き手の男はひとりもいません。
おばさんはかつぎ屋になりました。
新潟や長岡から魚や日用品をしいれてきて,反対にお米や野菜を都会へ運ぶのです。
おかあさんはお針や編み物の内職です。
きものや帯をお米と取り換えてもらったりしました。
とうもろこしパンやカボチャのはっぱの入った雑すいなどはいいほうで,
わらびで作った黒パンまで食べました。
病気になると,お米だけのおかゆとうめぼしが食べられます。
ああ,また病気になりたいなあ,と思いました。

(9)

 11月になり,こがらしがふきはじめました。
とこ夏の台湾からきたものには,寒さがこたえます。
もともとからだのあまりじょうぶでないおかあさんには,内職はきつすぎました。
できあがった注文のセーターをとどけにいったかえり,
道ばたにたおれ,そのまま死んでしまいました。
あきらはねえさんとふたりっきりになってしまいました。
おとうさんはまだかえってきません。

(10)

 栃尾の町を見下ろすすもん山に初雪が降りました。
台湾育ちのあきらたちには初めて見る雪です。川の土手にふたりで見に行きました。
「あきら,『牛女(うしおんな)』の話知っている?
 死んだおかあさんが雪山に現われ,こどもの成長を見守ったんだって。
 私たちのおかあさんもきっとあのすもん山から,私たちを見ていてくださるでしょう。
 悲しいことがあったら,お山を見にきましょうね。」
「ねえさん! あの雲をごらんよ。おかあさんが,おかあさんが見ているよ!」

(11)

 おとうさんが帰ってきました。
新しいおかあさんもきました。
あきらは少年になりました。
でも,ときどき死んだおかあさんを思い出します。
海に泳ぎに行きました。
佐渡に赤い大きな夕日が沈みます。
空には夕焼け雲がきれいです。
海には赤いじゅうたんの道が夕日に向かってゆらゆらとつづきます。
あきらは,その道をまっすぐ泳いで行きました。
だんだん赤味が薄れていく雲の中に,おかあさんの姿を見つけたからです。
沈む夕日の中をどこまでもどこまでも泳いで行きました。

(1985.9.23 稿)

[注]

南方…今のインドネシアのこと
国民学校…今の小学校のこと
こうしゃほう(高射砲)…飛行機をうつ大ほうのこと
内地…日本本土のこと
すもん山(守門山)…福島県境近くにそびえる美しい火山
『牛女』…小川未明の童話


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更新日:1997年8月19日