岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

大学・学問・学生 16


「僧伽」に寄す

 今、良寛が静かなブームだという。この殺伐とした世の中、良寛さまの優しさ暖かさが共感をよんでいるのだろう。良寛は、一般には子供らと手まりつきつつ暮した越後の乞食坊主として知られている。識者は優れた歌人・書家と讃える。しかし、良寛はやはり僧であり、求道の人であった。和島村島崎にある墓石には「僧伽(ソウギャ)」という漢詩が刻まれている。師の人となりを示すのにもっとも相応しいとして、親交のあった漢学者鈴木文台が選んだという。
………(前略)………
 白衣の道心なきは、猶尚是れ恕すべきも、出家の道心なきは、その汚れやこれを如何にせん。髪は三界の愛をたち、衣は有相の色をやぶる。恩を棄てて無為に入り、これ等閑の作(シワザ)にあらず。我、かの朝野をゆくに、士女各々に作あり。織らずんば何を以て衣、耕さずんば、何を以て哺まん。今、釈氏の子と称するは、行もなく、また悟りもなし。いたずらに檀越(ダンオツ)の施を費やして、三業、相顧みず。頭をあつめて大語をたたき、因循、旦暮にわたる。外面は殊勝を逞しゅうして、他の田野の嫗を迷わす。おもう我れこそ好箇手と。ああ、何れの日にか寤めん。
………(後略)………
 当時の腐敗堕落した仏教界に対する激しい憤りが歌われている。良寛は仏の道に忠実であり、己れに厳しかったからこそ、大堂伽藍に身をおくことを拒んだのだ。
 この詩を読む度に、我が身が恥かしくなる。僧伽を学者、釈氏を大学と読み換えれば、1世紀後の大学もまた良寛に激しく叱責されるであろう。とくに地方大学の頽廃ぶりは目を覆うばかりである。大学における教育とは、知識の切り売りではなく、学問に対する情熱を伝えることである。私が学問に志したのは、教養学部時代、白髪の老教授が目を輝かせて学問を語ってくれたからであった。常に新しいことにチャレンジする精神を植え付けられた。がんばり屋の友も多かった。青年期は、幼少時の性格形成期と並んで、人格を形成する大事な時期でもある。よき師よき友に恵まれた幸せをしみじみ思う。ひるがえってわが大学を見るに、はたしてどうであろうか。何よりも教師層が問題である。私の恩師のように老いてますます盛んどころか、若年寄までいる始末。因循姑息、学生時代に教わった通りのルーチン作業を繰り返す。新しい峰に挑戦する気概はないらしい。データの多さを誇るだけで、新しい理論が生まれないから、安物の新制博士すらなかなか取れない。研究しない研究者は、まさに道心なき出家である。しかもそれを恥じるどころか平然としており、救いようがない。また、博士を持たなければ助手にしてもらえない大学と異なり、田舎では最初から「先生」である。知らず知らずに事務職員や学生とは人種の違った偉い人間と思い込む。大言壮語するところまで、良寛の指摘通り。
 作業を研究と勘違いしているから、学生の教育もいきおい調査や分析・鑑定の技術を仕込むことが中心となる。職業訓練校である。少しでもオリジナルなことをやらせようとすると、そんなレベルの高いことはうちの学生には無理だと言う。私は学生時代にほんの少しでも新しいことを自らの手で開拓したという自信が将来貴重な経験として生きてくるのだと考えている。技術革新のテンポは速い。大学時代に教わった知識はすぐ陳腐化する。その時、新しい事態に尻込みするか、率先して乗り越えて行くかが、分かれ目である。高校卒と大学卒の違いが現われるという。本学の卒業生は、このままでは、技術者として即戦力になり重宝がられるが、社会をリードする人間にはなれないのではないかと憂える。私は、自分の大学の学生が下級職人のまま終わって欲しくない。
 確かに本学学生の偏差値は最低線に近い。いかに楽に単位を取るかといった態度が目にあまる。講義をサボるのは昔からあったが、その分図書館などで自分の好きなことを勉強していたものだ。今はともかく講義に顔だけは出すが、勉強はしない。先日も開講前にどのくらいの予備知識があるか、小テストをしてみた。自分の専攻する学科の教科書どころか、新書程度の普及書すら読んでいないことがわかり愕然とした。表面的に見ると、とても大学生とは言えないレベルである。しかし、私の見るところ、受験勉強にあまり毒されていないだけナイーブであり、導きようによっては伸びる素質を持っている。今のように上から知識や技術を与えるのではなく、共に学問と悪戦苦闘する姿勢が大切なのだと思う。その中で学生も成長して行く。教師と学生は相対するのでななく、学問に対しては同じ方向を向いているのだ。学生の可能性を引き出すのが教師であり、逆に伸びる芽を摘んでいるのでは罪が深い。かく言う私自身もその一員。責めは負わなければならない。良寛のような大愚にはなれず、ただの愚者ではあるが、やはり山門を去るべきなのだと思う。

<注>

 僧伽=僧侶;白衣=世俗の人;無為=生滅・変化しないもの;釈氏=釈迦・仏門;檀越=檀那・施主;三業=身・口・意、人間の一切の業

(1987.1.2 稿)


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更新日:1997年8月19日