岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

大学・学問・学生 1


学位馬返し論―大学院進学を希望する学生諸君へ―

 宮沢賢治の童話に『大博士とその助手』という語が出てくる。今でも「博士様」などと呼んで,近づき難い大変偉い人種だと思っている人がいる。確かに戦前は功成り名を遂げた大先生がもらうものが学位であった。しかし,戦後,新制大学院制度ができてから,学位に対する考え方が大幅に変ってきた。博士課程後期に3年間在学して論文を書けば誰でも博士になれるのだから,馬鹿でもチョンでも取れるというので,「バカセ」とすら言われている。ある友人がアメリカでその話をしたところ,以後 Ha"kase と手紙の宛名に肩書きを付けてくるようになったと笑っていた。とくに,自然科学方面では,もう課程博士が普通になってしまった。
 しかし,学位安売り時代だからといって,学問の進歩にとって大学院制度がマイナスだったわけではない。それどころか,大きな貢献をしてきたと言ってよい。20代の頭脳がまだ柔軟な時に創造的な仕事をすることは大変重要である。将棋の世界では,31才までに4段になれなかった人は,プロの世界を去らなければならないという。そういう人は結局その後伸びない,ということが経験的にわかっているからだそうである。学問の分野でも同様で,若い時代にどれだけ頭脳を柔らかくもみほぐしたかが,その後の進歩を規定する。若い時代はライフワークの基礎固めと位置付けて,単なる学習に励むだけではダメで,学位論文のような独創的な仕事を一つ仕上げたという知的ブレイクスルー(break through)の経験が貴重なのである。一仕事成し遂げることによって,また新たな展望も開けてくる。とくに,自然科学はこうした若い頭脳によって支えられ発展してきたと言っても過言ではない。その点,人文・社会科学方面では大学院制度を重んじていないかのようにみえる。大学の教授クラスでも学位を持っていない人がかなりいる。どうも日本の人文・社会科学は,訓詁学的で独創性が感じられないのは,若い時に創造的な仕事をするトレーニングを受けていないためではないかと思っている。自然科学者のひが目であろうか。
 私が学位の審査をする時には,論理が多少未熟でも,データが不足気味でも,何か少しでもキラリと光るものがあればよしとしている。その後研究者として伸びていくであろうという可能性に学位を出すのである。だから年をとってから提出された論文博士には,膨大なデータが付いているものの理論が陳腐で独創性に乏しいものが多い。もう頭脳が硬化しているのである。
 そこで,私は「学位馬返し論」を唱えている。馬返しとは,富士山に登る時に,馬を捨ててそこから徒歩で登るところである。つまり,指導教官という馬の助けを借りず,自力で登り始めるところが学位である。自立した研究者としての出発点と言ってもよい。この馬返しを過ぎると急に眺望が開けてきて,遠方まで見渡すことができる。今までの疲れもふきとび,新しい元気がわいてくる。また,より高い峰も見えてくるから,もうひとふんばりがんばって頂上をめざそうという気にもなる。学問もしかり。チャレンジすべき新しいテーマが発想されるし,ライフワークの道筋もおぼろげながら見当がついてくる。同時に,自分のいる現在地点の低さがいやでも自覚される。己れの小ささがわかり,謙虚にならざるをえない。ところが,馬返しで一服し足踏みしてしまった人はどうであろうか。馬返しでも裾野の樹海くらいは見晴らせるし,しかもまだ頂上は見えない。お山の大将の気分である。すっかりそれで満足して自分は大家になったと思い込み,高慢になって他人をあれこれ批評する。こうなるとチャレンジ精神は失われ,進歩はパタッと止まってしまう。作業を研究と勘違いし,ルーチンの職人仕事に満足する。あるいは,他人の開発した理論や手法を適用するといった,二番煎じの輸入学問に終始する次第となる。こうした人がその後たとえ学位を取っても,出発点たるべき学位が到達点になってしまい,それ以上の発展が望めない。
 研究職は,芸術・スポーツ・囲碁将棋などの世界と同じく,プロの世界である。やはり一定年齢までにあるレベルに達しなかった者は,その世界を去るべきであろう。研究の世界はそれだけの厳しさが要求される。とくに大学教員の場合はなおさらである。下手な歌手の歌は聴きに行かなければよいが,学生は否応なく聴講させられるのだから。実力のない教師に教わる学生は悲劇である。 これから学問を志そうとする学生諸君は,モラトリアムとしてではなく,それだけの決意をもって大学院に進学して欲しいと思う。現代の若者は,オジン族から新人類だ,いやキリギリス族だなどと呼ばれ軽蔑されているが,旧人類にない豊かなすばらしい感性を持っている。汲めども尽きない豊かな発想は豊かな感性からしか生まれ出ない。人間的な厚みあるいは幅の広さといったものがものを言うのである。しかし,単なる思いつきに留まるか,真に独創的な研究に発展するかは,たゆまざる努力にかかっている。先輩たち中年アリ族のがんばりも見習うべきではないだろうか。若い時代は二度と来ないのだから,精一杯がんばって,独創的な研究をして欲しい。若者に期待すること大である。

(1985.11.4 稿)


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更新日:1997年8月19日