岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

山を見る・山と語る 3


処女水

 今,秘湯の旅がブームである。若い女性の温泉めぐりが盛んという。温泉というと,お年寄りの湯治が連想され,どうも女の子のイメージと結びつかない。しかし,地質学には昔「処女水」なる語もあったから,まんざら縁がないわけではない。
 温泉の成因について考えてみよう。以前は,温泉はマグマ水(岩漿水)と言われ,地下深部から直接由来したものと考えられていた。したがって,火山周辺のような特殊なところにだけ存在する。地球誕生以来初めて地表に湧き出したというので,処女水と呼ばれたのである。このように貴重なものだから,万病に効くとされ,あたかも魔法の水の如くみなされてきた。各地に湯治場が開かれ,治療に保養に賑わった。学問的にも,温泉は専ら医学的な研究の対象となり,温泉地には温泉病院が建てられた。
 しかし,鹿児島でも昔は桜島の古里ぐらいしか温泉はなかったが,最近は市内のように直接火山がないところでも温泉が出る。市内の銭湯はほとんど天然温泉である。どうしてこうなったのだろうか。それには温泉地質学の発展が大きく貢献している。戦後,同位体化学の進歩が地質学にも影響を与えた。まず,重水素と水素の同位体比(D/H比)が測定され,各地の温泉で値が異なるのに,一つの温泉湧出地をとると,温泉水と付近の地表水とがよく対応することがわかった。地球深部に由来するものならば,各地でほぼ一致してもよいはずである。また,トリチウム(半減期12.5年)を利用して,温泉水の年代を測定してみると,地球誕生時の45億年といった値を示すものはなく,ほとんどが数日から数ヵ月と極めて若い。結局,天水が地下に浸みこみ,地熱で暖められて再び地表に湧き出したものに過ぎないということになった。言われてみると,極めて当たり前の話である。科学は常識を乗り越えるが,その結論もまた,ある意味では平凡で常識的である。
 温泉が循環水であるとなると,温泉を探す方針も違ってくる。熱源と地下水の両方がそろえばよいのである。熱源は地熱地帯のような特殊なところはもちろん,地下増温率(普通は100mにつき3℃)が比較的高いところならばよい。水に関しては,地下水盆の形態と,その水収支が問題となる。まさに地質学の領域である。何よりも地質構造の解明が重要課題となる。不整合面がよい受け皿になるという。鹿児島では四万十層群と花倉層の上位の不整合に温泉が胚胎している。こうして鹿児島市内に多数の温泉が開発され,そのあおりを食って交通の不便な古里温泉はさびれてしまった。山師が神がかり的に探すのではなく,科学的に見出すことが可能になった。
 科学が処女性の神秘を剥ぎ取ってしまった。まことに夢のない味気ない話である。そうは言っても,やはり疲れは取れるし身体にいいという人がいる。これも温水がよいのであって,普通の沸し湯の風呂でも同じ効果が得られるという。だから,最近は温泉にも効能書が貼り出されていないし(誇大広告の薬事法違反?),別府の九大温泉病院も「温泉」の文字を看板からはずしてしまった。もちろん,仕事や日常の雑務から離れて,静かな自然の中でのんびり保養をする心理的効果は無視できない。森林浴とともに,温泉につかることは大変よいことなのである。まして,若い女の子に会えるとあらば,元気の出ること間違いなし。大いにお勧めしたい。

(1986.6.1 稿)


ページ先頭|地質屋のひとりごともくじへ戻る
連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:1997年8月19日