岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

明日の地質学をめざして 6


自然観察と採集

 先日,屋久島で行われた自然観察指導員講習会に講師として参加した。夜遅くまでの超過密スケジュールだったが,老若男女多くの参加者が熱心に受講しておられ感心した。また,自然保護協会の役員の方から,自然保護運動は3世代100年にわたる息の長い運動である,との壮大な展望が語られ,大変感銘を受けた。会員が100万人になれば世の流れが変わると訴えられて,とうとう入会することになった。参加して大変よかったと思っている。  講義等で,自然保護(nature conservation)とは自然をより高度に活用することであって,決して捕鯨禁止団体のようなかたくなな主張をしているわけではない,と繰り返し語られ,共感をおぼえた。しかし,口ではそういうものの,具体的な言動では,植物や昆虫の標本採集に対するストイックな態度が目につき,とくに鹿児島県内在住者の中には本能的に違和感を感じとった人が多かったようである。やはり自然の中の生活者と自然に憧れている都会人との肌合いの違いなのであろう。
 私も台湾の山村で幼年期を過したので,鹿児島の人の気持ちがよくわかる。おもちゃは木や竹を採ってきて自作したし,草笛も吹いた。こんな植物の採取だけでなく殺生もやった。例えば,鶏をつぶすのは男の子の仕事。首を切り落としてもまだあばれる。うっかり手を離そうものなら,首なしの鶏がヨタヨタ逃げる。その生に対する執着は,どんなことがあっても生き抜くんだということを教えていた。散華を賛美したあの軍国主義教育の中で。都会人には見ていられない光景だろうが,川魚を除いてはほとんど唯一の蛋白源,手ずからいつくしみ育てたものでも,背に腹は代えられない。涙をこらえて首をはねた。
 また,蛇はどんな小さな可愛いものでも毒蛇である。咬まれると100歩歩かないうちに絶命するという猛毒の百歩蛇もいた。だから,通学には竹ヤリを必ず持参し,見つけ次第それで突いて,石コロで頭をつぶした。人間も一個の生物として,自然とのギリギリの接点で生きてきたのである。こうして育った子供が残酷な大人になったかと言うと決してそうではない。否,むしろ自然を友とし,自然を大事にする心優しい人間が多いと思う。
 この講習会の後,子供を連れて帰省した。実家の裏浜で地引網をやっている。漁師が網にかかったヤドカリを砂に埋めていた。子供はかわいそうだとショックを受けた様子である。そこで,網から獲物をはずす作業を手伝わせてもらった。魚はわりとうまく取れるが,最後に残ったヤドカリを網を切らずにはずすのは根気のいる大変な作業である。朝市の時間が迫るのに,妨げになることはなはだしい。ヤドカリを逃して大繁殖でもされたら,それこそ大変,子供も身にしみてわかったようであった。人間のエゴかも知れないが,やむをえないことではないのだろうか。
 一方こんな経験もある。ある都会出身の奥さんがいた。ゴキブリはもとよりどんな虫でも,キャーッと大げさな悲鳴をあげる。目をつむり半狂乱になってホーキでたたき回る。その方のお子さんがわが家に遊びに来たとき,息子が大事に育てていたオタマジャクシをいきなりむんずとつかんで殺してしまった。ともかく生き物は気味の悪いもの,汚いもの,無差別に殺すべきものと思っているらしい。これには慄然とした。子供はそうしたら死ぬとは知らずに残酷なことをすることがある。結果を見てしょげる,それでよいのである。また,先の例のように,人間が生きていくためにやむをえず殺すのは,子供がそのことを知っている限り,教育的に悪い影響を与えるとは思わない。しかし,殺すために殺すのは許されるべきではない。現在社会問題化しているいじめや自殺の背景には,このような生命軽視の幼児体験があると思う。
 こうしたザーマス夫人はペットなどはそれこそ猫可愛がりに可愛がり,動物愛護家をもって任じている人が多い。金持がクリスマスの時1日だけ貧乏人に憐みを垂れるのと同じセンスで,自然を“愛護”する。野生生物に餌付けをするのを動物愛護と勘違いしたり,捕鯨や野犬狩に反対するのはこういう人種である。
 話を自然観察会に戻そう。なるべく採集をしないに越したことはないが,雑草や木の葉1枚にいちいち目くじらを立てるのはどうかと思う。草花遊び大いに結構。昆虫など小動物は,持ち帰ってキチンと飼育するなり,標本として末長く活用するのなら,採集してもかまわないのではないだろうか(もちろん,特別珍しい貴重なものは,そっとしておいて繁殖させたほうがよい)。
 自然観察会では,人間もまた自然の一員であり,持ちつ持たれつ暮らしているのだと認識させ,もっと自然な自然との付き合い方を教えることが大切である。あまりに厳格な生類憐み令のような教育を行うと,極端なエセ“エコロジスト”を養成しかねない。自然保護はザーマス夫人のような上からの恩恵としての自然“愛護”とは違うし,自然保護協会は現代の犬公方になっては困るのである。

(1986.8.22 稿)


ページ先頭|地質屋のひとりごともくじへ戻る
連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:1997年8月19日