岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

明日の地質学をめざして 11


[書評] 松沢 勲監修:『自然災害科学辞典』

 自然災害とは、自然作用が人間社会環境に被害を与えることであり、自然と人間との関わりの中で発生する複合的な社会現象である。従来、ややもすると、自然現象とのみとらえ、各自の狭い専門の枠内でしかものを考えない風潮があった。“専門が原因を決定する”などと揶揄される所以である。あるいはまた、「自然災害科学」の項で松沢 勲氏が述べているように、“災害を研究上の資料として各自の専門学問自体の立場の研究があまりにも多い”。すなわち、災害は単なる研究材料に過ぎず、被害者の立場に立って、災害を真になくす実践的な姿勢が乏しい。とくに理学屋は、設計施工など防止工法については全く無知で、高踏なメカニズム論を得々と解説だけして事足れりとしてきた。一方、土木屋は、地質や地質構造などおかまいなしに、構造物主義万能の立場から、実験室での力学試験結果を機械的に適用して設計してきた。いわば“呉越同舟”“群盲象を撫づ”状態であった。
 このように自然災害科学には、地形・地質・地球物理・土木・建築・林学・農業工学など多くの分野の研究者が関わってきた。それぞれ地形学辞典・地学辞(事)典・土木用語辞典など、個別分野の辞典があり、災害関連事項も含まれている。しかし、自分の専門分野に関しては、今更辞典を引くまでもないし、他分野の辞典は手元に買い揃えてないから、結局、調べずじまいで終るのが普通であった。“蛸壷”でも通用したからである。
 文部省の自然災害科学総合研究班が出来て約30年、ようやくこうした状況を克服しようと、人文社会科学系の部会を設置するなど、総合科学的な取り組みの機運が出てきている。防災・減災に主眼をおき地域に根ざした学際的研究を行う芽が出つつある状況にある。こうしたとき、本書のような総合的辞典が刊行された意義は大きい。まことに時宜にかなったものと言えよう。筆者は先年、地団研総会で“地質屋の殻を打ち破ろう”と呼びかけたが、読者諸兄もぜひ本書を紐解き、地質以外の項目について目を通していただきたい。
 本書は小項目主義を採っており、2,300語を収録してある。内容は火山・地震・地盤・気象・洪水・海象など多岐にわたっている。項目の選定については、一部問題点も感ずるが、一応万遍なく触れていて大変便利である。とくに、単なる用語解説だけでなく、内外の主要な災害事例について触れている点に、災害科学辞典らしい特色が出ている。自然災害に関心のある研究者・教師・応用地質関係会社の地質技師・官庁の防災関係者など多くの方にとって、大いに役立つ本だと思う。ぜひ座右に置いておいておかれることをお勧めする。
 本書の監修者松沢 勲氏は総合研究班の生みの親の一人であるとともに、自然災害学会の初代会長でもある。個々バラバラの研究者をまとめ、今日のような総合的な研究協力体制を築いてきた功労者である。恐らく本書もそのような発想から企画されたものであろう。編集事務局を担当された新潟大学積雪地域災害研究センターと共に、その労を多としたい。
 希望としては、今度改版される際には、出来れば"TheEncyclopedia of Earth Sciences"シリーズのような大項目主義を採り、“読む辞典”にして欲しい。前述のように、細かな専門事項は専門分野の辞典で引くであろうから、本書の利用価値は、他分野の事項をちょっと知りたいとか勉強したいと思って引くような使い方にある。このような目的には大項目がふさわしい。ついでに関連項目まで勉強できる。また、災害から身を守る知識や現場の行動指針も盛り込んだと宣伝文句にあるが、例えば、地震時に何をなすべきかを知ろうと、地震や避難の項を引いてもなく、結局、わからずじまいだった。これも、地震や台風の項に、理学的解説・工学的対策・社会経済的対応・災害時の心得といった統一的スタイルで述べたほうが引きやすいと思うが如何?
 内容についても、とくに地質の項には、門外漢に専門の知識を教えてやるといった姿勢の項目がかなり目立つ。人選に首を傾げたくなるような方が執筆された項に多い。同じ項目名でも、地学事典と災害科学辞典では、自ずから解説する内容が違うはずである。真に災害科学に実践的に取り組んでいるその道の専門家に広く当たって欲しい。とくに、大学・研究機関だけでなく、民間会社や官庁などの方々にも執筆していただき、災害問題に直接役立つ、より実践的なものにしていただきたい。
 なお、項目の取捨選択の不統一も是正していただきたい。例えば、中生層・新生代・第三紀・第四系などである。第三紀層・第四紀層などに統一したらどうだろうか。
 また、不必要な地質の項目がかなりあるのに、佐藤武夫氏や木村春彦氏らの災害論の業績があるにもかかわらず、「拡大要因」の項がないなど、重要な視点が欠落しており、あまりに自然科学に偏りすぎている点も是正していただきたい。
<注>文中の“群盲象を撫づ”が差別用語だとして削除されて下記に掲載された。

(『地球科学』 Vol.43, No.1, 1989, 掲載)


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更新日:1997年8月19日