岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

こどもと教育 2


薩摩隼人いまいずこ

 鹿児島は武勇の誉れ高い隼人の国。鹿大から転勤話があった時,鹿児島は剛毅のお国柄,子育てに最適と勧められた。赴任直後の同僚との会話。
「鹿児島出身者には特別の気配りをしてください。」
「やはり手ごわいですか?」
「いいえ,全く逆なんです。特別手をかけてやらないと何もできないんです。」
「ええーっ,本当ですか?」
 最初は彼の言葉の意味が理解できなかったが,わが子の教育環境を見聞きするにつけ,なるほどと納得した。
 どこの地方にも町内会はあるが(それも任意加入),鹿児島には,他に“あいご会”というものがある。地域社会全体で地域の子供を健全に育成しようとの結構な趣旨の会。子持たずの世帯まで会費を取られる。お月見の綱引きやスポーツ大会などを主催する。しかし,子供たちの自主的な行事を援助する程度ならよいのだが,何から何まで母親たちがお膳立てをして,子供はそれに従うだけ。町内対抗スポーツ大会前の練習には,母親たちが当番で麦茶やおやつを準備し,いたれりつくせり。過保護の典型と言えよう。
 また,「山坂達者」の精神を伝えるとかで,スポーツ少年団活動が盛んである。しかし,鹿児島の場合,スポーツを楽しみ友情をはぐくむのが目的ではなく,どうやら勝つのが最終目標のようだ。これでは選手養成で,一部のうまい子はちゃやほやされるが,下手な子はついて行けないし,参加しても面白くない。ここにも選別と競争の論理。そのせいか,私の家に隣接する公園では草野球を楽しむ姿をあまり見かけない。スポーツ人口はかえって他府県より少ないのではないだろうか。
 学校教育も同様,徹底した管理教育が行われている。制服が強制されているし,教育委員会や校長・主任による締めつけがきびしく,先生方に情熱と創造性が感じられない。私の子が小学校一年生のとき転校した。次週の予定が書かれた学年週報はタイプ印刷の立派なもの。前の学校は担任手作りのガリ版刷りだった。クラスによって学習進度にある程度の遅速があるのは当然だが,主任の作る学年週報では家から持参する教具が統一されるため,落ちこぼれを作っても進度を同じにしなければならない。わが子は年賀状を出す際,うまくできたほうを前の学校の先生に,失敗作を今の担任に出した。子供心にどちらの先生が一人ひとりをかわいがってくれたか,敏感に感じ取っていたのだろう。
 また,教育内容ももっぱら詰め込みで,賞状を連発して競争をあおる。当然,いつももらえる子ともらえない子が出る。できる子は思い上がってできない子を馬鹿にし,賞状のもらえない子は,自分は頭の悪いダメな子だと思い込む。どちらにも不幸である。こうした選別体制が,受験競争にまでつながり,やれラサールだ,鶴丸だ,とエスカレートする。有名校に入れない子は落後者扱いでかわいそう。
 大学受験も然り。ラサールのような特殊な学校のあることが象徴するように,明治維新をやったお国柄か,大変な中央志向。「男なら中央で覇をとなえろ」と,猫も杓子も東大東大という。地元に残った者は落ちこぼれで,男ではないかのよう。これでは,鹿児島出身の鹿大生に覇気がないのも無理はない。こんなに幼い時から,「お前は頭が悪い。ダメ男だ!」と言われ続けてきたのでは,負け犬根性が染みつき,素質があっても自己の可能性に確信が持てないのは当然。今や維新時のような進取の気風もチャレンジ精神も失われてしまった。
 では,親の思惑通り有名大学に首尾よく入れたエリートはどうだろうか。東大でも九大でもあまりよい評判を聞かない。東大ではラサール出身者は留年第一位とか。田舎の秀才も東大ではただの人,自力で大学の門を開けて入った人は,自分は凡才だと気づき,その時点から努力する。鹿児島出身者のように,まわりから寄ってたかって大学の門の中に放り込まれた人は,ショックから立ち直れず落ち込んで行く。暗記秀才で独創性に欠けるとの声もある。本当に伸びるかどうか疑わしい。
 人間にとって一番大切なのは,有名校に入ったか否かではなく,いかに充実した人生を送ったかである。鞭をふるって競争に駆り立てる教育関係者も,塾通いに精出させる親たちも,この本質を忘れているのではないだろうか。青少年時代は,人間性を築く大事な時期である。子供たちの真の幸せのために,もう一度考え直してみようではないか。

(1986.4.2 稿、『南日本新聞』1986.10.13号掲載)


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更新日:1997年8月19日