岩松 暉著『山のぬくもり』25


民話と民衆

 地質屋は各地を旅する。必然的に趣味は旅に関わるものが多い。木下亀城先生は『郷土玩具』と言う本を著されたし、鹿間時夫先生はこけし収集の大家だった。久野久先生は古い民家の写真撮影に凝っておられた。その他、バードウオッチングや風景スケッチなどいろいろある。無芸な人は土地土地の地酒をひたすら飲む。私は酒が弱いから、地元出版社の刊行した民話や昔話を買ってきて宿で読むのが趣味である。
 子供の頃読んだ昔話は勧善懲悪・因果応報といった教訓じみたものが多く、大抵ハッピーエンドで終わっていた。しかし、地元で語り継がれてきた話は、決してそんなきれい事ばかりではない。正直者が馬鹿を見る話や悲惨な話、むごたらしい話などさまざまである。卑猥な話も実に大らかに語られている。そう言えば、グリム童話の原作も、われわれがよく知っているものとずいぶん違っていた。第一、民話の主人公たる民衆とて善人ばかりではない。勤勉で営々と働くが、ずる賢くて猥雑であり、できるだけ楽をしたいと考えている。しかし、心から悪人にはなり切れず、どこか憎めない。清濁併せ呑む大海のような大きな器が民衆である。享保の改革が失敗し、「白川の清きに魚の住みかねて、濁れる田沼今は恋ひしき」と詠われたのも、松平定信が真の民衆の姿を知らなさすぎたからである。社会主義の壮大な実験も、社会の主人公と位置づけられていたはずの、当の民衆からノーを突きつけられた。あるがままの民衆を受け入れず、教化善導すべき一般大衆と見て、自分たちのイデオロギーを押しつけた独善の結果である。
 民話には無名の人々のさまざまな生き方が散りばめられ、汲めど尽きない哲学が秘められている。祖先の智恵が込められている。古いものを全面否定するのではなく、もっと謙虚に学ばなくてはと思う。

(1997.1.26 稿)


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更新日:1997年8月19日