岩松 暉著『山のぬくもり』16


二人称の死と一人称の死

 最近、死について考える機会があった。年末のX線検査で大腸に腫瘍の疑いが見つかった。年末年始で通常の診察日ではないが、一日でも早いほうがよいから、特別に入院患者と一緒に大腸鏡検査をしてあげます、開腹手術の覚悟もしておいてください、などという。その上、検査には妻も同行せよとのこと。単なる検査だから一人で行けばよいのにどうもおかしい。恐らく癌の告知をするためだと思った。そこで、父の死のことを思い出した。
 父は88歳過ぎてもかくしゃくとしていた。ところがちょっとした病でひと度入院したら、がたがたといってしまった。熱が出たり下がったり、血圧が上がったり下がったり、呼吸困難になったりと、あちこちのコントロールが利かなくなったのである。汎自律神経失調症と診断された。昔風に言うなら老衰なのだろう。最後は声も出ず、震える手で筆談した。苦しそうでとても見ていられなかった。無理な延命治療は可哀想だから止めてくれと医師にお願いした。2ヶ月後、私の妻に感謝しながら亡くなった。
 柳田国男が二人称の死と言っている。もちろん、一人称の死は自分の死である。三人称の死は、ニュースなどで聞く見ず知らずの人の死で、他人事に過ぎない。二人称の死とは家族や親友など、自分にとってかけがえのない人の死を指す。母を亡くしたのは幼かったから、あまり覚えていない。鮮明に記憶しているのは、姉と父の場合である。
 姉は10数年前癌で亡くなった。乳癌が全身に転移したのである。最後は骨までボロボロで、寝返りを打っただけで頭蓋骨が骨折した。夫、つまり私の義兄が医者だったから、痛み止めを処方してくれたが、それがきれると激痛が襲った。義兄と私の手をきつく握りしめて我慢した。その力がふーっとなくなった時、事切れた。しかし、最近はペインクリニックが発達して、ほとんど痛みを感じなくてもよいという。良い時代になったものである。ボケ老人になるより癌で死ぬのも悪くない。飛行機事故のほうがもっと良いかも知れないが。
 姉の場合には余命が分かっていたから、最後の1週間、病院に寝泊まりして看病できた。子供の頃のことや亡くなった母のことなどいろいろな話をした。父の場合は、風邪が元のちょっとした衰弱と言われていたので、私は死に目にあえなかった(妻が虫の知らせか看病に行ってくれた直後だったのが幸いだった)。父自身もすぐ退院できると思っていたらしいが、さすがに自分の高齢を考えて、心の準備はしていたようだ。まず米寿記念に専門書『地熱資源ボーリングマニュアル』を出版した。次いでわが家のルーツなぞ全く興味のない息子のために『越後岩松家私史』を書き残してくれた。湾岸戦争でイラクがクエートの油田に火を付けたことから、防衛庁防衛研究所の人が戦争での油井火災を消し止めた唯一の生き証人として聞き取り調査に来たのをきっかけに『戦時南方の石油』なる小冊子まで著した。死後書斎を整理したら『自薦句集』の原稿も出てきた(一周忌に出版した)。貯金通帳から有価証券までキチンと整理されていて唖然としたものである。
 ひるがえってわが身はどうであろうか。これといったまとまった仕事はしていないし、部屋は雑然、どこに何があるか自分でもわからない。まさに不肖の息子である。父は死して後、私にいろいろな教訓を残してくれたが、私は一人称の死を迎えて、妻子に何を残すのだろうかと考えた。最近は家を留守にして、応用地質学の後継者養成機関創設などに奔走していたが、人間最後はやはり家族のことを考えるらしい。

<後日談>
 腸は曲がりくねっているから、胃の検査と違ってカメラで腸管を突き破る事故が稀に起きる。そこで家族の承諾書を取るのが規則とのこと。そのために妻を呼んだに過ぎないことがわかった。私の勘ぐりすぎだったのである。しかも、検査の結果は腫瘍の疑いも晴れ、青天白日の身となった。ところが無罪放免となると、あれだけ真剣に残された日々を充実して過ごそうと考えたのに、元の木阿弥。凡人は救いがたい。

(1997.1.15 稿)


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更新日:1997年8月19日