岩松 暉著『山のぬくもり』13


なぜ、どうして

 「なぜ」と疑問を発することから科学は始まる、とよく言われる。ところがどうも「なぜ」は死語になったらしい。ゼミでは全く議論が弾まない。話し手は論文に書かれている内容を忠実に紹介するだけ、聞き手は無言である。こちらが「なぜ、どうして、根拠は?」としつこく聞く。字面だけの答えが返ってくる。さらにその根拠の根拠を聞くともうお手上げである。若干戯画的に例を挙げれば、「がけ崩れの誘因は降雨です」「どうして雨が降ると崩れるの?」「地下水が増えるからです」「地下水が増えるとどうして崩れるの?」「??」といった具合である。もう少しましな学生だと、さらに「間隙水圧が増大するからです」と続く、そこで「間隙水圧が増えるとどうして崩れるの?」と追い打ちをかけると絶句する。有効応力からせん断抵抗の話まで行ったためしはない。一事が万事この調子、通り一遍の説明で満足してしまって、それ以上追究しないのである。たとえ表面的でも一応の型式論理さえ通っていれば、安心するらしい。別な視点から見直したり、もう一歩突っ込んで批判的に読む姿勢は皆無である。
 一方、聞き手はその論文を読んだ訳ではないから、当然、全くちんぷんかんぷん。分からなくても居眠りもせずじっと我慢して聞いている、その忍耐力には感心する。幼い頃から学校でお客様でいたため、慣れっこなのだろうか。
 オウム真理教に多くの若者がのめり込んで行き、疑問を発しなかったのもうなづける。小学校以来の暗記主義教育で、「なぜ」を忘れてしまったのだ。学習とは鵜呑みにすることであり、活字になっていることは真理、先生や上級者の言うことは間違いない、と思い込んでいる。その上受験勉強ばかりで、文学や哲学など幅広い読書をしてこなかったから、極めて視野が狭く常識に乏しいため、同じ系統の文献だけを繰り返し繰り返し与えられれば、簡単にマインドコントロールにかかってしまう。恐らく東大一直線などと、わき目もふらず勉強に励んだ近視眼的受験秀才ほど陥りやすかったであろう。もっとも凡才とて安心できない。ナチス啓蒙宣伝相ゲッベルスの「ウソも100ぺん言えば真理になる」や中国共産党の洗脳(この英訳がbrain washing, mind control)を思い出せばよい。民衆が熱狂してハイルヒットラーを叫び、毛沢東語録をふりかざしたのだから。このままでは、日本でも経済が行きづまり時代閉塞の状況が出現したとき、カリスマが現れれば、簡単にファシズムや全体主義にもって行かれる危険がある。
 では、どうしたらよいのであろうか。「なぜ」の復権である。子供は本来好奇心に満ち満ちている。「なぜお空は青いの」「赤ちゃんはどこから来たの」などと質問責めに遭い、閉口した経験はどの親もあるはずである。それが学校教育の段階で好奇心の芽が摘まれ、疑問を持たなくなり、いい子まじめな子の枠にはめ込まれてしまう。Education(教育)とはeduce(性能などを引き出す)と同じ語源である。その子供の本来持っている才能や能力を引き出してあげるのが教育であって、teach a dog to beg(犬にちんちんを教え込む)という意味の、一方的に結論を教え込むteacher(先生)ばかりでは困る。ちんちんができない犬でも立派な猟犬や牧羊犬はたくさんいる。吠えることしかできなくても番犬としては優秀である。逆に、ちんちんの上手なかわいらしい犬は役立たずで、お座敷ペットにしかならない。これからの教育は「はみだしっ子」を許容する方向に舵を切り直して欲しい。大量の知識をいかに早く覚えるかではなく、じっくり観察して深く考える子供を育てなければならない。
 大学もまた真の知識人を輩出する義務がある。本当の知識人とは一歩退いて己自身も客体視することができなければならない。ところが東大などごく一部を除いて全国一斉に教養部が廃止された。必然的に一般教育が軽視される。疑問を感じず何でもすぐ鵜呑みにし、受け売りをする専門バカ・技術ロボットが養成されかねない。わが国が、単純な加工産業から先端産業へ産業構造の転換を図らなければならない、ちょうどその時にである。時代が要請しているのは、複眼の思考ができる創造的な人材である。

(1997.1.12 稿)


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更新日:1997年8月19日