岩松 暉著『山のぬくもり』11


一神教と多神教

 東西文明を比較するのに、狩猟民族と農耕民族、砂漠の思考と森林の思考、肉食と穀物食等々いろいろな切り口がある。ここでは一神教と多神教といった観点から見てみよう。一神教の神はエホバのように天地の創造神であり、人間も自然もすべてを造りたもうた。人間は天なる父に罪を懺悔し、神の前で裁きを受けなければならない。邪な人間に怒りの罰を加える恐ろしい神でもある。他の神・他の宗教は邪神・邪教であり、異端は排斥されねばならない。突き詰めれば原理主義となる。宗教をアヘンと見なしたマルクス主義もまた、キリスト教の影響を色濃く受けている。己が理論を唯一絶対に正しいとして、異端を粛正したのは周知の通りである。もっとも熱心だったと言ってよい。
 多神教では、わが国の八百万(やおよろず)の神のように、山川草木すべてに神が宿ると言われ、自然そのものが神であって人間にとって身近な存在である。人間もまた自然の一員であり、いずれは土に還る。輪廻転生、来世は動物に生まれ変わるかも知れないのである。万物の霊長といった人間だけが特別な存在とは考えない。人間も動物も植物も相互依存の関係にある。みんな自然の懐に抱かれて生かされているのだ。私の田舎では、木守柿(きもりがき)といって、柿の実は全部採らず、鳥たちのために残しておく習慣があった。祖母は、キャベツの外側の葉は青虫たちのものと言っていた。アイヌも決してオーバーキルはやらなかった。
 一方、われわれは明治維新以来、西洋的なものを進歩的文化的として受け入れてきた。われわれが教わった科学もまたデカルト・ニュートンの流れを汲む西欧科学である。分析哲学が基礎にあり、物理的機械的世界観が底に流れている。物事をまず要素に細分して、単純な系(要素系)について分析する。万有引力の法則が象徴するように、万物に通用する単純な統一原理が必ずあるはずだと信じた。社会科学でも同様、唯物弁証法で経済の仕組みから人間社会全般までを一刀両断に説明しようとした。あれかこれか、ゼロか1か、ファジーは認められなかった。
 しかし、自然は相互に複雑に連関した生きた有機体であり、どこかに手を着けると、思いも寄らないところに影響が出る。信濃川の洪水と新潟港の埋積を防ぐために大河津分水を造ったら、新潟では海岸浸食で砂浜がなくなってしまった。砂防ダムを造った結果、鉄分不足の水が供給されたため、海では磯焼けが起きて昆布が採れなくなったという。この頃アトピー性皮膚炎が多いのは、身体の寄生虫を徹底的に駆除した結果だとの説もある。土木技術者も医学者も良かれと思ってやったはずである。要素系にとってベストと思われる方策がこうした結果を招いたのである。要素系は自然の中の一部に過ぎないことを忘れていたのだ。これからは分析だけでなく総合が、単純系の科学ではなく複雑系の科学が必要になる。それぞれの系にとっては100点満点ではなくても、全体としてベターな方策を考える視点が重要になってくるであろう。
 社会科学でも同様である。社会主義の壮大な歴史的実験が失敗に終わったのが一番良い例である。平等・平和・植民地主義反対など社会主義の掲げた目標は正しい。しかし、平等=貧富の差の解消→生産手段の社会的所有→国有化・集団農場となってくると怪しくなる。それぞれの脈絡ではベストだとしても、どこかにひずみが隠れている。実際、コルホーズや人民公社が農民の生産意欲をどんなに殺いでいたか、廃止したとたん生産が急増したことでもわかる。現代の国際政治でも、イスラム原理主義とユダヤ教の原理主義との不毛な対決が中東和平を遠ざけている。このように一面的な議論は歯切れが良く一見説得力があるが、必ず落とし穴がある。21世紀は原理主義を克服し、多様な価値観を認め合う時代にならなければならない。

(1997.1.4 稿)


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更新日:1997年8月19日