[地質調査こぼれ話 その16]

フィールドの宿あれこれ


 地質調査に行って泊まった宿は数限りない。豪華ホテルを使ったことはないが,安宿ならいろいろ泊まった。学生時代に泊まった宿で,思い出に残るものをいくつか挙げてみよう。
◎丹沢の公民館
 東大駒場の地文研で丹沢を調べていたとき,山北町の紹介で公民館に泊めていただいた。隣に旅館がある。毎日出てくる料理が小さく切った煮魚で骨がない。しばらくして,旅館の客が食べ残した刺身と判明。ゲンナリ。
◎道志の小学校宿直室
 「オラー三太だ!」で始まる昭和20年代の有名なラジオドラマ「三太物語」のモデル校。道志川沿いの小さな平家建の学校だった。地文研の連中と宿直室に泊めていただいた。宿直は男の先生で,花荻先生のような美人には会えなかった。残念。やはり,あれはフィクションだった。
◎横須賀の養老院
 やはり地文研で三浦半島の調査をした。横須賀市役所に岩生周一先生(現名誉教授)の手紙を添えて宿舎の紹介を依頼する。返事に曰く,「安い宿といえば百円のベッドハウス(今のカプセルイン)からありますが,何しろ基地の街で風紀が悪いですから,衣笠の良いところを紹介します。」 行ってみたら,何と養老院。風紀が良いはず。毎日柔らか目のゴハン。みんなで一高寮歌を歌ってあげて,お年寄に大変喜ばれた。
◎関電クラブと遊廓
 駒場時代,木村敏雄先生(現名誉教授)のお伴で,黒四ダムの調査に行った。工事中,大町扇沢に関西電力のクラブ(迎賓館)があった。料理は帝国ホテルのコックが作る。ナイフとフォークの使い方がわからず恥をかく。豪華だが25トンダンプが行き来してうるさい。関電の計らいで新築の旅館へ引っ越し。これが何と工夫相手の遊廓(というほど立派ではないが)。数日して関電の幹部が来て,しきりに謝る。こちらはキョトン。私もまだ子供だった。
◎山形小国の農家
 片山信夫先生(現名誉教授)の紹介でウラン調査に山形へ行った。山里で旅館もない。原燃(動燃公団の前身)が手配してくれたのが,この農家。部落の中では中農以上だろうが,当時は栄養知識が普及していなかったためか,毎日毎日菜食。やむなく夕方川へ行ってカジカ取り。炉端でコンガリ焼いて動物性蛋白質を補った。
◎秩父の旅館
 進論で1カ月滞在した。ひどく値切ったせいか,毎朝生卵と海苔だけ。以来,今でも生卵と海苔は見るのもイヤである。ただ,なかなか美人のお嬢さんがいた。帰京後,どういうわけか私宛てに手紙が来た。上京する由。上野の近代美術館を見せ,ロダンの前で記念写真を撮る。私も「据膳食わぬは…」と,ロダンのごとく「考える人」になったが,そのまま下りの汽車に乗せて帰した。
◎四国桜谷の旅館
 巡検で泊まった。名は忘れたが,留学生も一緒だった。当時でも珍しい五右衛門風呂である。“Long long ago, a famous robber Goemon..." とやったら,聞いていた奴が,五右衛門は忍びの者であって単なる泥棒ではないという。忍者なんて,英語ではとっさに出てこない。“A great spy Goemon was boiled in such a vessel by retired president Hideyoshi." と迷訳した。留学生氏は目を白黒。
◎根尾谷の料理屋
 安藤雅孝くん(現在京大防災研)の卒論指導で泊った。村の公民館に泊めてもらい,食事だけ近所の料理屋さんに食べに行く。ちょうど知事選の真っ最中。両派が1軒しかない料理屋で代わる代わる供応する。その度にこちらのオカズが豪華になる。どうせ一緒に作るのだから,お金のことは心配するなとのこと。自民党サマサマだった。
 その他,お寺や駅舎・バンガローなど,いろいろなところに泊まった。もちろん,テント生活もしたし,お宮の軒下で野宿したこともある。
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更新日:1997年8月19日