[地質調査こぼれ話 その13]

危ない綱渡り―卒論発表と提出―


 9月末,大学院入試である。つい1〜2年前までは無試験の推薦入学制だった。この頃も肩たたき時代の名残が残っていて,試験は形だけで参加することに意義がある程度。ただし,相乗平均でやるから1科目でも零点があると落とすぞ,と脅される。一般教養は,数学・物理・英語・独語で受ける。1点でもあればいいんだろうと高をくくって何も勉強しない。当日朝,積分の公式を眺めただけ。専門はペーパーテストと英語の論文を4,000字以内に要約すること(全訳したら落とす由)。なるほどこれは語学と地質学の実力が同時にわかるわいと感心。まだ人ごとで受験生という実感はない。要するに入試の本番は卒論中間発表,つまり,口頭試問である。それ故,フィールドから帰ってきてからの1か月は,入試の準備イコール卒論の取りまとめに費やした。
 また木村敏雄先生(現名誉教授)に呼びつけられる。「キミはいつも一言多いから,『エー,ところで』まで一字一句全部書いた演説原稿を持って来なさい。」早速提出。「どんなに短い話でも起承転結をキチンとふまえ,論理がちゃんと通るように。これでは事実と推論がゴチャゴチャだ。結論を押しつけるのではなく,事実を示して納得してもらうように。重要な露頭はスケッチも出して,図表に語らせなさい。」等々,厳しく指摘される。また,書き直した原稿には,キーワードに赤線を引き,要所要所には所要時間を入れておくとよい,声を出して何回も練習すること,といった細かな注意もいただく。こうしたやり方は,その後学会発表や講演のときに大変役に立った。思えば,手取り足取りの親心である。いよいよ本番。小藤記念室へ。地震研や海洋研の先生方もおられる。親心に反してアドリブが出る。幸い懸念していた不整合問題は,あまり追及されなかった。
 大学院入試も何とか終わり,一難去ってまた一難,論文書きが待っている。最初の関門はもちろん木村先生。「日本語原稿を提出せよ。いきなり外国語で書くと,どうしても論理構成より欧文を作ることに神経が集中する。学術論文は外国語表現の稚拙より内容なのだ。」とのお達しがある。修正を予想して1 行おきに書いて提出。案の定呼び出しがあり,真っ赤に添削された原稿を片手にこってり搾られる。次の関門は英作文。冬休み越冬して寮で呻吟する。なかなか英文が思い浮かばない。同級生は大学ノート3冊書いたとか4冊書いたとか。とても清書の余裕はない。苦肉の策を考える。活字が同じタイプライターを探す。あちこちの講座秘書のお嬢さんに頼み込み,運よく同じメーカー・オリンピアが3台集まる。理学部2号館中廊下の奥まった院生室に運び込む。助教授の佐藤 正さん(現在筑波大)・助手の徳山 明さん(現在兵庫教育大)それにW講座の鎮西清高さん(現在京大)まで動員。各章分担してタイプしていただく。適当に英文を直しながら。そのうちに声あり,「おい,何のことかちっともわからんぞ。要するに何をいいたいのか,日本語で言ってみろ。」 パタパタパタ……。音声入力自動翻訳機のはしりである。夜になる。高井冬二先生(現名誉教授)が顔を出され,「ホホウ,論文製造工房だね。」と,お菓子の差し入れ。まわりの先生方みんなにご迷惑をかけ,どうにかこうにか締切に間に合う。以後,一生頭が上がらなくなる。今や時効となった古き良き時代の打ち明け話である。アア,恥ずかしい。
 こうしてやっと完成した論文が私の処女論文*となった。初め良ければ終わり良し,のまさに逆,以来今日に至るまで,締切に追われ泥縄を続けている。この論文の幸先もよくなかった。若造が,当時定説だった古生代末の造山運動(本州造山運動)を,化石(地質)の根拠もなしに否定した,というので非難を浴びたのである。亡くなられた某大学の某大先生が,「割れ目などチョコチョコ測って何がわかる。」と激怒された由,洩れ聞いた。それと共に,本論の構造階層の考え方まで無視されてしまった。

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* IWAMATSU,A.(1969), Structural analysis of the Tsunakizaka syncline, in southern Kitakami mountainous land, Northeast Japan. Earth Sci., 23, 227-235.


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更新日:1997年8月19日