[地質調査こぼれ話 その7]

君はペインターか!?―立見先生の叱責―


 国際地球観測年が始まったのは1957年。南極観測船「宗谷」の活躍が新聞を賑わした。第一次越冬隊長として昭和基地を築いたのが,東大理学部地質の立見辰雄先生(現名誉教授)である。その立見先生のところで南極のアルバイトがあるという。私が行くことになった。教養学部の頃である。毎日,本郷に通う。仕事はポリッシュ(反射顕微鏡用の研磨片を作ること)。先生の脇机に陣取って,ピッチ盤に向かう。ときどき顕微鏡をのぞいて仕上り工合を確かめる。「ピカピカした黄色い四角なのが黄鉄鉱。少しレリーフが付いているだろ。不規則な形の黄味が強いのが黄銅鉱。キズが付きやすいから気をつけて」と噛んで含めるように教えてくださる。実に穏やかな優しい先生である。
 ある日,4年生が研究室を訪れた。4年生は,カラス・(若)秩父・ロング・長官・タヌキ・クモなど,お互いにあだ名で呼びあっていたから,そのとき来たのは誰だったかわからない。卒論のフィールドから帰った報告らしい。大きな図面を広げ,しきりと説明している。時々先生の鋭い質問。横目で盗み見ると,フィールドノートを繰りながら,口ごもっている様子がわかる。突然,いつもと違うやや荒げた声。「きみ!! どこに行ったら何がありました,なんていうのは論文ではないよ。レポートというんだ。大体,サンプルを渡して,これが出てきたら赤く塗っておいで,青く塗っておいで,と言えば,高校生だってできる。そんなのはジオロジストではない。ペインターだ!」 聞いているこちらのほうが,震え上がった。話の内容は十分理解できたとは言いかねるが,ともかく,学問とは厳しいものらしい,ということだけはよくわかった。ペインター(ペンキ屋)なる言葉が強く脳裏に焼きついた。
 その後,地質鉱物コースに進学する巡り合わせになる。反射顕微鏡実習で,出来の悪い学生だけ残されて顕微鏡をのぞいていると,珍しく先生が学生室に顔を出された。助手の加藤 昭さん(現在国立科博)にご用の様子。早速,これは何ですか,とお聞きする。「多色性は?」「異方性は?」「屈折率は?」と矢継ぎ早の質問。それが全部わかるくらいなら,鉱物名はとっくに同定されるはず。聞く必要もない。昔のように懇切丁寧に教えてくださると期待していたのに,大違い。前は教養の学生,今は専門の学生,扱いがこうも違うものかと,思い知らされた。「駒場 Childと本郷 Gentleman」という言葉がある。もちろん,学生服の衿章の C(本当は教養学部 Culture の C)をもじったもの。駒場なら多少羽目をはずしても大目にみてもらえるが,本郷の専門生は一人前の紳士として扱われ,厳しく責任を問われる,との意である。深夜放歌高吟しても許された弊衣破帽の一高生と角帽姿の帝大生とで厳然と区別があった時代の伝統をひいている由。立見先生に限らず,専門の教育は極めて厳しかった。否応なくプロ意識をたたき込まれた。もはや,クラブ活動にうつつをぬかしているわけにはいかないのである。
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更新日:1997年8月19日