『越後岩松家私史』

岩松一雄


十、越後岩松家の姻籍

 岩松氏遠祖の足利陸奥判官義康は熱田大宮司範忠の女を娶り、曽孫時兼は貞応三年(一二二五)母新田禅尼の所領上野國新田荘岩松郷に武蔵國春原荘万吉郷を譲受けて岩松氏を創設、また時兼は相馬能胤の女豊御前を娶り、嘉禄三年(一二二七)岳父より女房領地陸奥國千倉荘を譲られ遠江五郎経兼を儲け、経兼は江田下野守源頼有の女を娶るなど、関東の豪族との間に婚姻を結んだ名家である。
 越後へ下向した義時以降は、主に魚沼郡方面の越後新田党と縁組して、中下越地方と結ばなかったことは、往年同地方は賊党と呼んだ武家方の本據であったこと、またその頃蒲原地方は未開墾地で政治経済は頚城、魚沼の山間部が栄えた時代であったことによるものであろう。
 近世に至り始めて守門村須原の五反苗地主で俗にご大名といわれた豪農目黒家と縁組が行われ、また学者の家系の小出島松原家から左内の父翠が入婿し三男二女を儲け、次男は栃尾市本明の酒井家(源蔵どん、蚕種業)、三男は栃尾市繁窪の小林家(五郎左衛門、長男五平次は中野俣村長)の養子となり、長女は北魚沼郡細野の佐藤家(当主北海道住、晩生内郵便局長)に、次女は木山沢の保科歳市郎の新宅に嫁いだが、小出町の松原家とは逸記の代まで交際が続いた。また須原村の目黒家(現在目黒邸は國の特別保護建造物)からは岩松 翠の曽祖母に当る子女が岩松家に入輿し、岩松家では女部屋(新婚夫婦の別棟)を新築して迎え、子方家持頭の政治衛門以外は出入を許されなかったといわれ、この女部屋は岩松家歿落の折解体し、おとな家持の山本権四郎方の中門として移築されたが昭和五十七年(一九八二)頃長岡市へ移住の際取崩された。
 また目黒家へはその後岩松家から左内母の妹が嫁いだが、大兵で白ホウソウの婦人であったと伝えられている。
 翠の嫡男左内は栃尾市下来伝の佐藤範兵衛(庄屋格、当主明治製菓副社長)の長女を娶って四男一女を得、長男逸記(元治元年(一八六四)生)は下田村長沢の舊庄屋弥田金蔵の娘シノを娶ったが、父左内が水力発電事業に失敗続いて栃尾の紬仲買金政倒産の債務保証で岩松家も破産したので、逸記は栃尾町へ転居小学校教員となりマス、ツグ、一雄、ヒロ、秀雄、マサの子女を養育した。
 次男義助は歿落前に上京して工手学校(後の東京工業大学)を卒業、新潟鉄工所の長岡分工場長となり、同市船江町渡辺家に入婿(両養子にて妻は瓜生の燕家)した。
 左内長女は半蔵金田代の山内家新宅(紺屋)に嫁ぎ、三男敬三は岩松家破産の折出奔して流浪生涯娶らず晩年帰郷して逸記宅にて歿し、四男直造は二才で夭折した。
 逸記妻シノは明治四年(一八七一)生れ昭和卅九年(一九六四)九十四才で歿したが、金蔵長女にして弥田家は武家が帰農した家柄とて厳しい躾と、裁縫のほか押絵などの手芸に長じていた。
 母智恵子は聞えた聡明の婦人であったといわれ、長男島太郎は推されて県議選に出馬して破れて家産を湯盡し、嫁は蒲原豪農御三家江口の樺沢藤太郎の孫娘である。
 シノは幼時戊申戦争で長沢村は激戦地赤阪峠に近く、また長岡藩兵が会津に至る退却路に当るため、父金蔵が村役人を勤めていたので弥田家は役宅となり、続々到着する負傷兵を加茂野戦病院への転送や、小荷駄方の荷さばきと交代人足の手配に狂奔し、母は敗走する上級藩士家族の休息接待に当ったといわれる。
 幼いシノ女は、弥田宅に着いて下郎の背から解き放れて大喜びの幼児達が、やがての出発を嫌って座敷中を逃げ廻る姿を悲しく眺めたと折に触れ語っていた。

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更新日:1997年8月19日