『越後岩松家私史』

岩松一雄


九、越後岩松家の繁栄と歿落

 陸奥國千倉荘の地頭岩松義政の遺児義時は家臣の計いで相馬氏の圧迫を避けて越後へ遁れたが、普通の戦場落武者と違い予め越後勤王党の協力による下向であった。
 このため『栃尾市史』に「東中野俣に池の又長者と天野長者の屋敷跡や両長者が出会ったという坂の名が残っている」とあって、新山に先住の池の又長者(船田経政)が義時一行を出迎えた事実を伝えるものであり、来越当時から分限者であった。
 抑々義時の下向は父義政歿後十年余に亙る相馬方の執拗な謀略に対し、重臣らが練りに練って決行されたもので、環境工作は勿論義時に十分な軍資金を携帯させたので、僻地新山に天野長者(岩松屋敷は小字天野)の伝説を生み、やがて泰平となるや岩松家が大檀越となって繁窪に位牌所東光寺を創建し、修験宝蔵院として安居樂業した。
 かくして岩松家は近世に至るまで繁栄したが、或る日のこと左内が所用で栃尾への途次田之口の多田理右衛門方に立寄ると、主人理右衛門から「これから先は吾家の土ですぞ」と揶揄された話が残っており、その頃は岩松家の耕地は東中野俣から西谷辺にまで及び、現今でも田之口に岩松平の地名が残っている。
 また幕末頃西谷の農夫が妻の間男を捕へて殺した事件が発生し、本夫に同情した村方一統が宝蔵院に助命方懇請したので、岩松左内は咎人を伴い藩主牧野公に面接し、着用の緋の法衣の袖で犯人を圍い「何卒よしなに」と平伏して許されたといわれ、男は明治末まで生存したという実話が残り、左内は修験道の極官であるため藩公からは珠遇されていたことを物語っている。
 また苗字帯刀を許されていたので戊申の役には藩からの冥加金を賦課されたが、やがて農地経済は平場に移り蒲原地方の沼澤地干拓で富農が輩出し、これに反して山間部は凋落の道を辿る変革期でもあった。
 その頃岩松家当主翠は漢学の素養高く江戸の文人と交遊があり、時々嫡男左内を伴い上京し新開地横浜など視察して外國文化にも接していた。
 息左内は長じて戸長(明治十三〜十七年:一八八〇〜一八八四)となり、県庁や古志郡役所に出頭する機会に新田開墾事業の重要性を認識していたようである。
 これによって岩松左内は明治廿年(一八八七)守門川の水利権を得て、青涯の堰(写真)の河水を栃尾の上ノ原まで延長約二十粁の潅漑水路を開削し、その間約三百町歩の開田と放流水を利用する水力発電によって栃尾機業を電化する事業を企画した。
 これは現在の県単事業にも匹敵するもので、発起人には左内妻リユの弟下来伝の佐藤範兵衛、左内の妹婿広瀬村細野の佐藤定六の協力を得て会社を設立して明治廿年(一八八七)事業に着手し、これは同廿九年(一八九六)創業の北越水力電気会社に先駆けていた。
 水路工事の広瀬側は水源の青涯の堰から大平地区までの難所が完成し、栃尾側は吹谷地内まで開削して全線の三分之二を終わり一部通水を行ったが、松尾地区において再三地崩れが発生し、また石峠の官林払下げの許可前に着工して告発される事件などのため、工期が遅れて予算超過に苦悩したといわれる。
 特に渇水期の水量不足が判明して、流水式から貯水式発電に計画変更を余儀なくされ、貯水ダムの建設とこれに伴う水利権など不測の問題は事業運営に対して致命的な打撃となった。
 このため経理擔当の佐藤範兵衛は増資の金策に奔走したが株主は応じなかったので事業は半途にして挫折し、後年範兵衛は平素「神も佛もあるものか」として朝夕神棚には背を向けたという笑話が残っている。
 こうして事業に失敗した岩松家は栃尾町へ移り、下来伝佐藤家は長岡市へ、細野佐藤家は渡道して定六妻の実家並柳の関谷家の野幌開拓地に落着いた。  計らずも左内の夢であった青涯の堰から広瀬郷の大平地区に至る潅漑水路は、六十年余の星霜を経た第二次大戦後、大平開拓地造成に活用されて八十町歩の開田が実現したことは、左内以て冥すべきであろう。
 因に往年の守門川発電事業について、木山沢の舊庄屋保科博義氏並に上来伝の舊庄屋大崎昭二氏は郷土史の観点から興味を寄せられ、昭和五十二年(一九七七)以来青涯の堰をはじめ広瀬郷の志料採録を試みられ、次のような事実を確めた。
 すなわち事業主体であった潅漑水路の法線は、舊県道の北側斜面を少し下ったところの等高線に沿い、各地に深さ一b底幅三bの溝跡は現在でも認められる。  また里人の証言で工事は鋤と鍬を用い、木製のスコップ様のもので土を投げ上げたこと、掘開作業は赤谷村の近くまで完了して試験通水をしたところ、流水と共に大きな魚が流れてきたので、子供心にもこの水路は大きな川に通じていることを感じたと古老は語った由である。
 最初の試験通水で早くも松尾村の砂質粘土地帯では堤防が相当長大な区間欠潰し、更にその時期になって副事業の流水式発電が、夏の渇水期には水量不足が判明して事業が挫折した由の証言を得、また当初から村民の一部に地すべり常習地に地形を変更することは、地すべりを誘発するとして反対し、村民は日雇稼ぎに潤われながら概して非協力的であったといわれる。
 こうして左内が夢見た地域産業興隆策も瓦餅に帰したが今日郷土史研究家に先人の跡を偲ぶ動きがあり、幸いに保科博義氏によって「とちおと人物(物語)」に次のように紹介されている。
         守門川水力発電を計画した先覚者岩松左内
 岩松左内は、天保二年(一八三一)市内新山に生まれました。岩松家十二代の左内は、父翠が文化人で東京方面に交友があってたびたび上京したので、父に伴われて新しい文化を見聞する機会があり、当時田舎では全く履く者がなかった編上靴などを着用していました。
 長じて中野俣の戸長となり、明治十三年(一八八〇)から十七年(一八八四)まで、五年間にわたってつとめ、村発展のために大いに力をつくしました。その頃、土地の売買には戸長の承認が必ず必要でしたが、左内はその実情をよく調査して、現在でいう農地の交換分合を強く推進し、懇切に指導しました。
 左内は気宇壮大で、明治二十年(一八八七)五十五歳の頃次のような考えのもとに大事業を計画しました。
 @守門川の水利権を獲得して上流二分地内の青涯の滝附近に流水式の発電所を建設して電力を栃尾に供給しよう。
 A発電所の放流水は、先に文化八年(一八一一)、菅畑の五十嵐銀七が開田のため手がけた青涯の堰を更に補修し、大平―大宿―石峠―栗山沢―吹谷―泉を経て栃尾町上の原(現在の栃尾中学校附近)に至る延長約二十キロメートルの潅漑溝を改修して大布川に落し、その沿線、主として広瀬郷と栃尾上の原に三百町歩を開田しようという、今でいえば県営事業にも匹敵する大規模な企画でありました。
 左内を発起人に、妻の弟の下来伝 佐藤範兵エ(当主は前明治製菓副社長 佐藤興次 東京大森在住)、妹婿 広瀬郷細野村 佐藤定六(当主は北海道晩生内郵便局長 佐藤正久)を協力者に会社を設立、株主は、広瀬郷と栃尾郷の農家を対象に計画され、岩松家との姻籍関係から須原の目黒、小出島松原などの有力者にも出資を求めました。多くの出資者の中に栃尾紬仲買商人がいたことは興味深い所でありますが、将来、電力を機業に利用しようという考えがあったものと思われます。
 左内は、この計画達成のため、古志郡役所、県庁にたびたび出張いたします。その頃下越方面では福島潟や紫雲寺潟など干拓事業に成功した富農が生れた時代で、その刺激を受けたことは疑いもありません。
 しかし、先に五十嵐銀七が失敗したと同じように左内もまた失敗に終りました。それは栃尾側に入ってからの江堰(井堰の誤り)は地盤が方々で欠壊し、特に栃尾附近の地質が軟弱のため折角作った堰型さえ無くなったカ所がたくさんできたこと、更に、夏の渇水期になると水量が減って到底発電に必要な水量を得られなかったことなどで、これはたしかに致命的なことでした。
 守門川の水量を基準としてはじめ流水式発電を計画したのですが、渇水期の水不足は貯水式発電に計画を変更しようとしましたが、それは貯水ダム築造に対する増資問題や更に広瀬郷と栃尾郷とのダムの水利権問題が続出して、発電計画は遂に中止しなければならなくなりました。こうして電気のなかった時代、いち早く水力発電を計画した左内はたしかに時代の先覚者でありましたが、この卓見もまぼろしの守門川発電に終ってしまいました。
 この計画のため、左内、範兵衛、定六共に全財産を無くし、村にも居れなくなりました。しかし、銀七や左内が作った青涯の堰によって、広瀬郷では終戦後、大平開拓地に八十町歩の開田が出来、現在上條農協に出荷される米の量は相当多く、青涯の堰は栃尾人によって開発され、守門村の一部住民はその恩恵に浴していると、守門村文化財保護委員の桜井以如さんは語っておられます。筆者は、大崎昭二さんと大宿の桜井さん宅を訪問し、親しく青涯の堰の現地を案内してもらい、機械力の無かった時代、よくもこの掘削をなしとげた大業蹟を偲び、心から感謝したのあります。
 こうして、公益事業に専念した左門(左内の誤り)は、この事業の失敗により再起不能となり、全財産を散逸したため、晩年は左内の次男である渡辺義助方(長岡市船江町、当時新潟鉄工長岡工場長)宅に身を寄せて老後を送りましたが、大正五年(一九一六)夏八十四歳で歿しました。法名は、青松院夏嶽良念居士で、当主は新潟市関屋松波町旧帝石常務(取締役の誤り)岩松一雄氏です。(保科博義)
[昭和五十二年十月十日付『広報とちお』]
 因に筆者の保科家には岩松家破産の折に同家が買収した新山地内の土地台帳や、岩松左内の戸長時代の公文書を蔵すといわれる。
 因に左内による発電事業の失敗は株式組織のため家は破産しなかったが、これを機に株主の一人(栃尾紬仲継商の金政商店)が左内の息逸記(妻帯したが部屋住)に対し自己の商売資金調達の保証人を強要し、逸記が同情無断で左内の謀印したところ金政は計画倒産したので、計らずも岩松家は急転直下倒産に追い込まれた。
 やがて金政は詫びのため紬反物を斡旋したので、左内は亡き父翠の知人を求めて上京し紬の行商をしたが、所詮は士族の商法に終った。
 その後、近くの比礼、浦瀬山に出油して越後に石油ブームが起るや、長岡市の次男義助方に身を寄せていた左内は、東山油田北方延長の沈降部に当る桑探峠の小貫地内の鉱区を所得し、明治卅九年(一九〇六)頃米國式綱掘法の新式掘削機を導入し凡そ二百米試掘したが、油層を発見するに至らず失敗して文字通り岩松家は再起不能となった。
 当時一雄は三才位で姉マスとツグに伴われて現場を訪れ、石油鉱夫に抱かれて谷底の井戸櫓に案内され、大きな木製の車輪(ブルホイール)が廻っているのに恐怖の声を上げた微かな記憶があり、現在でも事務所と坑井跡が残っている。
 この石油鉱業との縁は左内孫一雄は日本石油鰍ノ就職してこの東山油田で実習を終り台湾鉱業所へ赴任し、大戦と同時に徴用ジャワ油田の占領と復舊に任じ、後に南方燃料廠地質部開発課長で終戦となり、帰還復職して帝國石油且謦役となった。

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更新日:1997年8月19日