『越後岩松家私史』

岩松一雄


八、越後岩松氏の家系

 日本系譜出版会『岩松一族の系譜』の清和源氏新田統岩松氏の章に曰く「創め新田氏の祖大炊助義重は、弟足利義康の嫡孫義純を愛でて、これを嫡子義兼の女婿として新田荘岩松郷に封じた」「義純長じて太郎遠江守と称したが、後に北條時政女を娶り畠山氏遺領を継いだので義純の嫡男遠江太郎時兼が、母新田岩松禅尼の所領岩松郷を相続して岩松氏を創立した」とあって、義純の嫡子遠江守時兼を岩松氏祖としている。
 また『寛政重修諸家譜』巻千二百十六には岩松氏発祥の経緯につき曰く「足利上総介義兼の嫡男義純は、父の勘気をこうぶり上野國新田荘に至る。新田大炊助義重朝臣これを養育し、嫡子大炊助義兼が女を以てこれを配し二子を儲く、長子を太郎時兼といひ次子を時明といふ」「すでにして義純は畠山家を相続す、時兼は外祖父大炊助義兼の統を継ぎ新田荘岩松郷に住し、これにより岩松氏を姓とす」と記し、両書とも大筋において相違せず、岩松氏は足利本宗と新田本宗との婚姻により創立されたものである。
 これにより定本の藤島神社蔵板の『新田族譜』において、岩松家系の條によれば「義康(足利式部大輔義國二男、足利陸奥判官)―義兼(足利上総介、母熱田大宮司範忠女)―義純(遠江守太郎、従五位、母遊女玉柏、承元四年(一二一〇)十月十七日卒、五十五才)―時兼(遠江太郎、母新田蔵人義兼女、父義純、初要新田義兼女、生時兼時明二子、後与舅義兼不和、母子帰父家、依成長干新田家、於此領岩松荘内新田族)―経兼(岩松遠江五郎、母相馬五郎能胤女土用子)―政経(下野太郎、母江田下野守源頼有女、為外祖頼有干称新田、道空入道)―義政(新田兵衛蔵人、山門臨幸供奉)」と続き、岩松氏本宗は時兼の曽孫義政を以て突如断絶している。
 これは『鎌倉大日記』に「世良田義政、尊氏謀叛の砌り貞治三年(一三六五)足利基氏に破れ、上州の世良田舘で自盡」とあり後人岩松義政と誤伝した結果である。
 しかし三百年後の『奥相志』に「応永十三年(一四〇七)岩松義政は伝領の地陸奥國行方郡千倉荘に入部」と誌し、また「義政は義純五世の孫也」と出自を明確に示し、計らずも敗死と伝えられた義政が突如として史籍上生還している。
 その後「義政応永廿六年(一四二〇)病歿、嫡子義時(『新田族譜』の義種は誤り)は猶幼なり、正長元年(一四二八)六月家臣之を弑し、以て相馬胤弘に帰す」と誌すが、実際に若殿は岩松四天王の謀らいで難を免れ越後へ下向していた。
 すなわち岩松家には「新田族の武将で上州から六十里越を経てこの地に来る」と伝えられ、祖父岩松左内は平素「岩松家は三百代続いた家柄」と自負し、南北朝時代から新山に定住したとの伝承とよく符合している。
 来越を證徴すべき岩松家の過去帳が新義真言宗最高位の戒名であり、創建時真言宗東光寺との関係を示すものであるが、古文書類は残されていない。
 それは元和の越後一揆(一六一五)において、名家の系図と古文書類は悉く焼却を命ぜらると伝えられるが、岩松家も亦例外ではなかった。(『栃尾市史』)
 因に乱離の中世代では社寺が最も安全な場所とされ、豪族は競うて位牌所を創建して系図および古文書類を氏寺に托すを常とした。(太田 亮『家系入門』)
 しかし岩松家は位牌所東光寺が享保九年(一七二五)炎上により本尊は救出したが寺位牌を焼失し、更に宝暦二年(一七五二)には大地辷りで墓地も流失した。
 被災後岩松家では埋歿墓地を探索して無縫塔(当主)五基、角塔(内室)四基、観音像(童子)五基および真言塔を発掘し、天野地内宝蔵院待宮の巣守社境内に真言塔と墓石を移転、碑面から過去帳を作成した。(岩松家口伝)
 降って昭和廿七年(一九五二)頃に東光寺住職服部泰舟師より、繁窪部落上村の溜池の取水口の栓に無縫塔が用いられているのが発見されたが、無縫塔は寺と岩松家に限られ、歴代住職(移転改宗後)の墓は現存するので、岩松家で調べるよう連絡があり、また昭和四十五年(一九七〇)頃の住職小杉玄龍師より、新山の檀家廻りで某家の佛壇に貼った二枚の紙片に岩松家と思われる戒名を発見し、家人に問ふたところ、「先祖が世話になった家の佛である由」などの情報が寄せられた。
 このように岩松家の過去帳以外の埋歿墓が尚未発見と考えられ、また歿年が享保以降に限られることも古い墓の残存を暗示し、また地すべりによる墓被害は他の檀家に無いことは、舊東光寺が岩松家氏寺であることを示すものである。
 こうして池中の無縫塔と紙片の二戒名を補足しても左内を以て十世に過ぎず、今後発見される可能性があるも、恐らく稍離れた場所かも知れない。
 墓は岩松屋敷に改葬更に昭和廿七年(一九五二)繁窪へ移転し、真言塔は大正十四年(一九二五)巣守社新山移築と共に鳥居傍に移して現存している。
 大抜け後発掘墓石の碑文から書写した寺位牌の戒名は、次の通りである。
    享保四巳亥年(一七一九)七月十六日寂      権大僧都大越家円順法印
    享保貮拾乙卯年(一七三五)正月十一日寂     権大僧都三僧祇好円法印
    碑面磨損         四月十一日寂     権大僧都三僧祇鶴寿法印
    文化十一甲戊年(一八一四)十月十一日寂     権大僧都三僧祇胎重法印
    天保十五辰年(一八四四)正月廿五日寂      権大僧都三僧祇胎学法印
 その後紙片にて発見せる戒名は次の二柱である。
    正徳四年(一七一四)八月廿七日寂        権大僧都大越家情学法印
    天保八亥年(一八三七)十一月十三日寂      権大僧都三僧祇定清法印
 東光寺を村方に解放して曹洞禅に改宗してからの戒名
    明治八戊亥年(一八七五)七月十六日寂      権大僧都大越家秀光法印
    明治廿二年巳丑年(一八八九)七月四日寂     宝光院夏嶽良翠居士(翠)
    大正五年(一九一六)八月廿七日寂        青松院夏嶽良念居士(左内)
    昭和十九年(一九四四)二月一日寂        紘徳院證信逸記居士(逸記)
 戒名は当山派修験位階の極官である権大僧都、法印と、最高職の大越家(おいつけ)および入峯修業の履歴を示す三僧祇は修養の高さを示すが、明治以降還俗した。
 岩松家は明治中葉に至り守門川の水力発電と新田開発事業に失敗した混乱期の折、家蔵の古文書類は悉く散逸したが、宝蔵院佛殿の本地のみ残されている。
 また家系を知悉していた左内は大正四年(一九一五)失意のうちに世を去り、六軒を数える子方家持(使用人夫婦を分家させたものでおとな家持とも云う)は本家の倒産により、新山、栃尾、北海道、東京に分散し、語部となるそれらの古老も死去したので、惜しくも岩松家全盛時代のよすがは知る由もない。
 しかし左内の嫡男逸記長女マスは、歿落前に生れ家柄を誇りとし大妻女学校に学び、母校の大妻女子大学の教授および理事を歴任して生前勲四等に叙せられた。
 マスは昭和四十六年(一九七一)七十四才で歿し学園功労者として学園葬となり、葬儀の導師駒沢大学教授東 浄真師は予て岩松家格式を承知され、故人に対し文徳院殿玉節慈照大姉と曹洞禅最高位の戒名を贈られ先祖の余栄と謂うべきである。
 因に当山派修験道の位階は次のようである。(『修験道ハンドブック』)
権少僧都→権大僧都(最高位)
大越家(おいつけと読み最高職の称号)
一僧祇→二僧祇→三僧祇(入峯修業の履歴)
法印(極官)
 越後岩松家の戒名が当山派修験の極官であることは、宝蔵院代々の当主は吉野金峯山三宝院に参じ修験としての修業は果したことを示し、岩松家には卯香女の描く山伏正装の肖像軸が残されているが、人物は岩松 翠(号養善)と思われる。

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更新日:1997年8月19日