『越後岩松家私史』

岩松一雄


七、岩松義時の下向地越後中野俣の政治経済的環境

 越後岩松家には「先祖は上州新田統の武将にして山伏姿で六十里越からこの地に来る」 という伝承があり、六十里越は中世に会津から越後を経て信州に至るいわゆる善光寺街道 の会津と越後の國境難所である。
 因に越後國は元弘三年(一三三三)新田義貞越後守に任ぜられ、その支族大井田氏は中 魚沼の大井田郷、里見氏は北魚沼の堀之内郷、田中氏は北魚沼の川井郷、羽川氏は北魚沼の藪神郷に、越後勤王党の豪族風間氏は東頚城の安塚郷、村山氏は西頚城の早川谷、池氏は 西蒲原の三條附近、小國氏は刈羽の小國など越後は南朝方の大根據地であった。
 これらの諸豪族は越後に止まって新田本宗の如く他國に出撃して消耗しないので、蓄積した力は上野國に次いで強力であったといわれる。(斉藤秀平『越後勤王党』)
 按ずるに岩松義政歿後急迫する相馬方の陰謀に対し、重臣ら相計り若殿をこれら越後新田党の庇護に委ねんとしたことは賢明であったと謂える。
 こうして義時の亡命先に選ばれた越後魚沼地方は、千倉荘より陸路七十里余に在って、目的地越後高志郡高波荘新山は六十里越から一日行程である。
 また当時から新山は南朝方と縁故があり『温古の栞』に曰く「新山に新田党の将船田入道経政の後裔が居住したが、同家歿落して元亀元年(一五七〇)当代左衛門正実は姓を小船井と改め小千谷に移住」とあり、因に船田経政は新田党の勤王武将で新田義興生害の後継者新田四郎義一の兄で実在の人物である。(『太平記』、『新田勤王史』)
 伝説にある池の又長者は隠棲した船田氏にして義時を迎え庇護したと考えられ、今でも両長者が出会ったという坂の地名が新山に残っている。(『栃尾市史』)
 中野俣の隣村森上の猫又権現には、『太平記』に見える触れ不動と符合するように「権現様が山伏姿に変身して越後中を一日で旗上げを触れ廻った」との伝説があり、勤王党の勢力下にあったことを物語るものである。(『温古の栞』)
 地理的に新山は宮方と武家抗争の地南魚沼や頚城地方とは石峠丘陵に囲まれて隔絶し、また地味は地すべり堆積地のため湧水が豊富で桑および青芋が自生し、米作のほか紬を生産して青芋は今町(直江津)の青芋座を通じて捌き、経済的には豊かな桃源境であったと想像される。(『郷土の地理的研究法』)
 また近くの小千谷地方は修験道が盛んで、薬師岳、大日峠、不動岩、法印滝などの行場があるので、これら羽黒派修験道と千倉荘の会津修験者との間に緊密な連絡が保たれ便宜を供与されたことは疑うべくもない。(『小千谷市史』)
 このような政治的経済的環境は、予てより岩松四天王が越後新田衆から精細な情報を得、若殿の隠棲地として新山小字天野の地を卜し、義時の下向を決行して護衛は会津修験者を附したと思われる。
 さらに四臣達の深謀で義時下向に当り、従者に豊かな軍資金を携行せしめたことは、『栃尾市史』に記す新山の天野長者(岩松屋敷は小字天野:写真が岩松屋敷跡)の伝説を生み、明治に至るまで宝蔵院として知られ、戦場落武者でなかったことを示している。
 かくして新山に安住の地を得た義時も、やがて越後勤王党は刀折れ矢も竭きて、幕府方の追窮を逃れるため各地に分散して沈淪した時代となるや、岩松義時も地域修験の協力を得る方便から、当山派宝蔵院を創設したことは「先祖は山伏姿でこの地に下向した」との口伝と一致する(写真:伝岩松家先祖肖像)。
 因に修験道とは「佛未だ一法を説かざる時の心是れ修験の宗旨也、いかでか経教を守るべけんや」と宗義の学を必要とせず、また有髪肉食妻帯を禁ぜず貴賎を通じて功徳に浴す独特の教義と、また特権として本山参詣に仮託して関所の通過が自由であり、南北朝時代に は宗教面のみならず政治から軍事まで関与したので、越後岩松家もこの道を選んだのは時代の流れであった。
 因に六十里越は往古から奥州より信州に至る重要な往還であったが、『越後野志』によれば「越後広瀬郷穴沢ヨリ國境マデ五里八町、國境ヨリ奥州田子倉マデ一里廿六町、山中甚ダ嶮難ニテ牛馬不通ノミナラズ人行モ亦難シ。因テ大白川ニテ善ク身ヲ調ベ径路案内ノ人ヲ連行スベシ、阿夫留麻川渉ルニ少キ出水ニモ渉リ難シ、人跡絶タル大行路難ノ地故一里ノ行程ヲ十里ニ比ベ、尚六里ノ道ヲ六十里ト称ス、山是ヲ行ク途中遺失物紛失セズ還リ来テ尋ネ求レバ得」とあり、往年難路を落ち行く義時一行の心労は察するに難くない。
 恐らく岩松四天王らは潮干狩に仮託して事を起したのは、下向目的地の越後魚沼地方(積雪三メートル以上)の降雪前に一切の設営を終る必要からで、義時は青葉の季節に峠越したと思われる。
 また『温古の栞』によれば、義貞鎌倉攻めの際越後新田党が呼応した軍旅の経路は、越後十日町―塩沢―大木六―沢口―滝又―谷後から大源太山の清水峠(舊上田峠)を越え上州沼田に抜けたと記録されている。
 この道順からも「上州の武将が六十里越から来住」と岩松家の伝承から、先祖は陸奥國より来越したことは疑うべくもない。

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更新日:1997年8月19日