『越後岩松家私史』

岩松一雄


六、岩松四天王らの苦衷と義時の越後下向説

 義政歿後十年にして起きた岩松四天王らの若殿謀殺説には数々の矛盾があり、まず逆臣等は陸奥下向に扈従し、つぶさに辛苦の末千倉荘に入部した股肱の臣であったこと、また若殿を海に投じたとして首級をあげなかったこと、然るに唯一の目撃者茶坊主はその場で斬ったこと、更に老臣青田長貞独り遊山には従わず反逆を知って馳つけ逆臣等と対決せず敢えなく自害したこと、その上謀叛に成就した逆臣が奇妙に相馬方に冷遇されたこと、また町誌に専千代の戒名は後年の謚といわれるなど、義時の最後についてはあまりにも謎が多い。
 すなわち智謀優れた岩松四天王等は、長年にわたる執拗な謀略も相馬氏とは遠い姻籍であり、また既に南北朝の合一成った現在相馬方には領土的執心のみで、若殿を他國に落しても探索の手が及ばぬと洞察した上、義時に越後下向の手筈を慎重に進めた形跡がある。
 すなわち鹿島町阿弥陀寺蔵の写本源氏、足利、岩松氏系図書の同文と目されるものが、善光寺街道の郡山在八幡の真言宗護國寺に所蔵せりという阿弥陀寺伝承は、落ち行く義時の足跡を語る有力な手掛りである。
 またこの推理は岩松家先祖が新田族の武将であり、南北朝の昔上州から山伏姿で六十里越より来るの口伝と奇しくも符合し、またその折負笈に奉持したと伝えられる金剛十一面観音の小像は、越後岩松家に現存している。
 こうして岩松四天王らは若殿謀殺の偽装劇を演じ、秘かに阿武隈山中へ送って北畠党に保護を託し会津から善光寺街道を越後へ落したが、嚮導は正先達道性法印(義政の霊を祀る白山権現の別当)など陸奥修験であったと考える。
 すなわち善光寺街道は往古より、奥州から越後魚沼地方を経て信州に至る往還にして、義時一行も道筋に当る郡山在八幡に至り、越後を望み街道一の難所六十里越を前にして休養と、越後新田衆の動向見極めまでこの地の護國寺に滞在することが、地理的に妥当な順路であろう。
 護國寺は福島県三穂田町八幡に在り、境内に延起式八幡社を祀る天平年間の創建と伝わる名刹であるが、慶長年間炎上して寺宝一切焼失したといわれる。
 従って岩松古系図については寺伝にないが、越後への落人が足を止めたことはあり得る事と津田宥保住職夫人は探訪の一雄に語った。

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更新日:1997年8月19日