『越後岩松家私史』

岩松一雄


五、岩松義政嫡男専千代(義時)岩松四天王による謀殺説

 義政再挙のため上毛より陸奥下向を決行した当時の奥州における諸豪族は、宮方と武家方に分れて宮方は武家方を賊と唱へ、また武家方は宮方を指して凶徒と呼ぶなど鼎の沸くが如くであった。
 この時期に義政が千倉荘へ入部し、横手御所内に舘を構えたことが勢力均衡に与える影響は、覇権が未だ完全に及んでいなかった相馬氏にとって大きな脅威であったことは間違いない。
 このため義政は生前相馬方の謀略の及ぶことを怖れていたが、『鹿島町誌』において曰く
 「応永廿六年(一四二〇)七月義政疾あり、新里、中里、島、蒔田の四臣および五十余輩の世臣を徴して曰く、吾が疾癒ゆべからず嫡子専千代丸幼にして乱に当る豈に小家を保つ得ん、願はくば汝等鎌倉以来主従の義を忘れずば、幼子を補佐し忠義を守り邦家を保て」と。
 「四臣君命を拝して曰く、臣等何ぞ二心を懐かん、力をつくして幼君を保護し永く邦家を保ち後栄を計らん」と。
 「義政喜色あり曰く、四臣此の如くば則ち我更に遺念なし、汝等夫れ誓文を書し以て赤心を表せよ、紙に書すれば腐敗あり当に石に刻し以て後世に貽すべしと、茲に於て誓ひて石に刻す」と深刻な苦悩を伝えている。
 このようにして重臣等の誓文を板碑として庭前に樹てたが応永廿六年(一四一九)七月十二日卒し、法謚岩松院殿故仙郎清巌貞公大居士の位牌は阿弥陀寺に安置し、裏山に五輪塔がある(写真)。
 やがて義政生前の杞憂が現実となったことは、すなわち町誌に曰く
 「一子専千代丸(義時)幼にして世を継ぐ、四天王および五十余輩の股肱爪牙の臣等、義政の遺誠を守り幼君を補佐して邦家を保つこと十年、是に於て四臣等反逆を企て正長元年(一四二八)戊申六月十五日、潮干狩遊覧と称し義時を誘引して鞍掛岩頂より幼君を海に投じて弑す、時に年十三、法名道空映月大童子、後に閑窓院殿道空映月大居士と謚す、今にして聞く者之れを哀まざるなし」と。
 また曰く、「家中に青田近左衛門長貞といえる老臣(元の代官?)あり、その日長貞病臥して潮干狩に従わず、四臣等の弑逆を聞き愕然として病床より彼地に至り、叛逆の罪を責めその場で自刃す、墓標に松を植え後人檀木松という」
 またこの変事に「母堂藤御前は悲痛号泣して自ら南柚木河に投じて死す」とあり、後人御前渕と名づけて弔い、法謚は清光院殿深誉妙貞大姉」とある。
 当日若殿に随行した茶坊主の善東は、その場で四天王によって誅されたので、後人此地を善東島と名づけ現在海が後退し水田に丘陵となっている。
 こうして哀れ岩松義時は四臣に謀殺されたが『鹿島町誌』に曰く、「之により岩松氏根絶し四臣及衆士相馬胤弘公に属し、千倉荘再び相馬領に復す、是において千倉を改めて北郷と名づけ、逆臣の采地を歿収し僅に扶助の地を養ひ余は相馬の功臣に賜ふ、天正に至り北郷五十余人と称する者元岩松氏の臣下なり」と記し、岩松氏の本宗は義時を以て滅亡とされ、爾来地元鹿島町では茲に岩松氏終焉と固く信じ、今以て蒲庭浦の哀話を語り伝えている。
 因に鹿島町には義政公以前領主の墓所が無く、『奥相志』の伝る如き岩松蔵人頭義政が初めて入部したことを示している。

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更新日:1997年8月19日