『越後岩松家私史』

岩松一雄


四、岩松義政本領の上野國を引払い、陸奥國の支領へ下向説

 このように岩松兵衛蔵人義政の生害説は何れも『太平記』、『南朝記』、『鎌倉大日記』、『喜連川判鑑』、『桜雲記』および『新田族譜』に基いて否定され、義政の生存は明白となった。
 岩松義政は新田義貞と討幕の兵を催すや、足利新田氏ら関東勢の本據上野國の守備に任じ建武中興に功を樹てたが、足利尊氏謀叛に及び弟経家は女影原で討死した。
 その後の義政事蹟に関しては『新田族譜』において、延元元年(一三三六)後醍醐天皇山門臨幸供奉とあって、叡山の役における忠戦を最後として史書から消えている。
 然し計らずも藩政末期刊の『奥相志』において「将軍足利家の傍統岩松蔵人頭義政(足利蔵人義兼の嫡男遠江守太郎義純の嫡子岩松蔵人時兼五世の孫也)は、応永十三年(一四〇七)千倉荘に封ぜられ、鎌倉より舟行して奥州へ下る」とある。
 これにより端無くも義政は再び史籍に登場し、義政破れ再起のため本領を脱出して五十余輩の旗本を従え、岩松氏伝領の地千倉荘へ入部したことが明らかとなった。
 すなわち義政生存を徴証する唯一の史料『奥相志』は、北朝方の相馬藩が藩士斉藤左八郎に命じて編纂した藩史であるが、義政千倉荘入部の條に限り岩松蔵人義継作の署名があり、また義政の出自も正確であって信憑性が高い。
 義政が再挙の地として目指した陸奥國千倉荘は、「下総の相馬能胤その采地を娘土用子に分配、土用御前上野國新田荘岩松郷地頭岩松時兼に嫁しければ、爾来岩松氏の伝領地となり、代官来住して荘務を租したる地なり」と『大日本地名辞書』に載せ、また『岩松文書』に依れば加比草野、萓定、御厨之内、手賀、布施、藤意、野毛崎などの地名が見え、俗に千倉千町と呼ばれ岩松氏は重視して強力な代官統治を行った。
 すなわち建武元年(一三三四)三月廿日幕府方下達書に曰く「行方郡千倉荘事 其身者称在府 以代官構城郭 及合戦企図候間 可加治罰之由 云々」の鯨岡入道宛の古文書があり、鎌倉幕府の嫌疑を受けたことが知れる。
 また行方郡千倉荘は地理的に、南朝方奥州の雄北畠顕家の根據地阿武隈山系の霊山には近く、また太平洋に臨み海路が開けていることから、義政は再起のための下向地として選んだものであろう。
 このため上野を脱出し北上した岩松勢の足跡については、後年に至り応永廿四年(一四一七)の『皆川文書』に曰く「岩松一類白河辺徘徊由其聞候 致了簡候可討進候」とあり、また同年の『結城文書』にも「岩松一類等隠居在所事 尋究之不日可加退治之旨 所被仰下也 仍執達如件」などの古文書は、応永廿四年(一四一七)禅秀の乱に上杉方に与して破れた岩松満純の残党捜索手配書であるが、按ずるにその以前義政勢が上毛の地から北上の途次白河関を通過した縁故の地であったことが窺え、また当時白河城主結城宗広は南朝方であったこともあり、岩松義政勢北行ルートとして白河は注目されてよい。
 すなわち義政戦況利非ず再挙のため本領上野國を脱出するや、結城および北畠党の勢力圏内の秩父徃還づたいに北上し、白河の関に達したものであろう。
 因に千倉荘(福島県鹿島町)阿弥陀寺現住談によれば、義政入部に奉持した善光寺式三尊佛の失われた脇侍の一体が白河地方にあるという寺伝から、住職が探索に赴いたが不明であったこと、また白河には現在岩松姓多しといわれ無縁の地ではない。
 このことは当時白河以北は北朝方の佐竹領であるため、白河から陸路千倉荘入りは困難な情勢から義政は陸行を避け、海路を選択したことは『奥相志』の示すところであり、このため義政勢は磐城小名浜辺からの渡海準備のため、白河地方に長期滞在したので帰農した将士のあったことを物語っている。
 さて岩松義政の千倉荘下向について『鹿島町誌』に曰く「世は南朝方の頽勢に伴い、幕府は支配体勢強化の必要から、足利氏一門である岩松氏を東北の地に遣した」と誌すが、『福島県史』は「千倉荘は岩松氏の伝領地であるため、関東において南北朝の抗争に破れた岩松氏が、この地に逃避を余儀なくされた」といみじくも義政破れて本領を引払い少数精鋭を率いての下向であったことを指摘している。
 すなわち義政は武家方の奥州押へとしてのお國入りではなく、宮方として僅かの股肱の臣を従え戦場離脱して白河に至り、その後舟行し入部したもので『奥相志』に曰く、「応永十三年(一四〇七)岩松蔵人義政、海路より来り千倉千町の地を領す、土人崇敬して御所内と称し、五十余輩の世臣之を臣奉す」と誌している。
 また『鹿島町誌』には「時に義政三尊秘佛と聖権現、若宮八幡、天満宮を船中に奉持し、烏(隠密)を乗せて当郷海岸に至るや烏飛んで浜の松樹に止まる。義政即ち烏に従って上陸し大内村に居住す。村民之を崇敬して御所内と称し(礎石現存)、また上陸地を烏崎と名づく」と誌している。
 このように義政勢は上陸に先立ち隠密を放って偵察を行ったり、また奉持した善光寺三尊は尺五の小品銅像(現存)であり、また刺繍阿弥陀名号掛軸(國指定重要文化財)など携行にふさわしく、敗者の逃避行であったことを物語っている。
 この地は西方阿武隈山地に発する真野川の扇状地にして東西四里余、南北二里、古来より千倉千町と呼ばれた豊饒の地であり、東は太平洋に臨み漁業が盛んで民安らかにして、予てより岩松氏はこの地の経営に意を注ぎ有能な代官府を置いた。

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更新日:1997年8月19日