『越後岩松家私史』

岩松一雄


三、岩松兵衛蔵人義政と世良田伊予守義政の生害説

 岩松義政は『太平記』第十六に「延元元年(一三六五)五月十九日義貞等と共に後醍醐天皇に供奉して叡山臨幸に従う」と見え、『新田族譜』には「新田兵衛蔵人、山門臨幸供奉」と記しているが、義政の後裔は義種(義時の誤)を以て空欄とし伝ふるところがなく、爾来史家の多くは岩松家本宗は義政を以て滅亡したと信じてきた。
 因に藤田精一は著の『告ぐるなき新田支族』において「勤王党の諸族は節を致し忠ならんと欲して志業空しく敗れて世に伝わらず」と嘆じているが、義政の事蹟も亦斯くして史書の伝外に葬り去られたものであろう。
 然るに太田稲主の『上野國新田郡史』には「義政、新田伊予守始岩松太郎、自父政経、新田頼宥所譲配分地、新田苗字、譲与之、元享乱、与義貞共、与義兵建勲、義貞始、宗徒輩雖亡、猶随南朝、漸以相起、貞治三年(一三六四)七月七日、鎌倉左兵衛督基氏、押寄世良田舘、義政、使家臣防矢、其身、入如来堂、自害」と述べている。
 更に中村孝也『建武中興時代の人々』に「岩松義政苦節奮忠両つながら努め、初元弘鎌倉討伐の際に義貞軍に従うて功あり、その後宮方を助け正平七年(一三五三)宗良親王と新田義宗の許で武蔵野に足利尊氏軍を破りしが、遂に王師の敗戦から義政陽に幕府に属し、陰に吉野朝に通じて討幕の機を窺う謀が漏れ、貞治三年(一三六四)足利左兵衛基氏の攻めるところとなり、奮戦の末衆寡敵せずその身如来堂に入りて自害す」と太田稲主説をそのまま引用し、爾来岩松義政は世良田舘で自裁と信じられてきた。
 然るに『寛政重修諸家譜』巻第千二百 六、清和源氏義家流岩松の條には「岩松下野守太郎政経嫡男岩松兵衛蔵人義政は、官軍に属し延元二年(一三三七)越前國金崎において生害す」とあり、また近刊の『岩松一族系譜』も之れを孫引きしているが、義政金崎にて生害とすれば、太田説の生害地と歿年を異にするので大きな謎である。
 また『鎌倉大日記』には「上州住人世良田伊予守義政、貞治三年(一三六四)七月廿七日蒙御感気(鎌倉基氏)、同廿八日被向討手、於如来堂、自害」とあり、また『喜連川判鑑』も同文を掲げ、また『南朝記』には「貞治三年(一三六四)上野國世良田伊予守義政、謀叛の事によりて鎌倉左兵衛督基氏、軍勢を差向けらる、同月廿八日義政如来堂に於て自害す」と岩松兵衛蔵人義政とは別人の世良田伊予守義政が登場している。
 また『桜雲記』にも「貞治三年(一三六四)七月廿七日上野國世良田伊予守義政、基氏を背く故追討され、廿八日於如来堂義政自害す」と明らかに世良田義政である。
 また田中義成は『新田義貞及其の後の新田氏』では「新田の一族世良田伊予守義政は兵を起して足利に誅せられる」と世良田義政の敗死を誌している。
 また新井白石は『三家考』において「新田世良田伊予守義政は世良田満義(『新田族譜』では義氏)の子にして、家を継ぎ弟に右馬助義周あり共に志を吉野朝に寄す、初元弘鎌倉討伐の際義政軍に従うて功あり…中略…尊氏謀叛に及ぶや義政は一時陽に幕府に屈し、陰に志を吉野朝廷に通じて討幕時期を窺ひ居たりしが、貞治三年(一三六四)七月また幕兵の襲ふ所となり、奮戦如来堂に自刃せり」と具体的に義政の苦節を叙し、貞治三年(一三六四)世良田舘で自害は岩松義政に非ず世良田義政であることを正確に示している。
 従って、岩松義政の自裁説は同名異人世良田義政の誤伝であり、『新田族譜』の世良田流の條において世良田伊予守については「貞治三年(一三六四)七月廿八日於如来堂自害」とある。
 すなわち『新田族譜』によれば世良田義政は徳川四郎義季の流にして、父は世良田次郎義氏(『三家考』の満義は誤り)弟は右馬助義周、また新田荘世良田に舘あり宮方として戦ったが、昭和四年(一九二九)刊の『上野國新田郡史』は岩松蔵人義政と混同している。
 一方において『寛政重修諸家譜』は岩松義政延元二年(一三三七)越前金崎自害と記すが、『太平記』および『新田氏研究』において金ケ崎城合戦の條に曰く、「天険の要害金崎城には新田の名将一族を盡して篭られたり…後略…」とあって、その落城には尊良親王、新田義顕らの生害を報じているが岩松義政の名は見えない。これらの史料によって貞治三年(一三六四)世良田舘の如来堂に入って自裁したのが、世良田伊予守義政であることは、『岩松文書』に曰く
 上野國新田荘内江田郷(世良田伊予守義政跡)事
早高田遠江守忠遠 相共莅彼所 守去月廿八日御下文之旨 可被沙汰付下地於
新田治郎大輔代之状 依仰執達如件
  貞治三年(一三六四)十一月九日      左近将監
    佐貫駿河守 殿
 上野國新田荘江田郡(世良田伊予守義政跡)事
任去月廿八日御下文並今月九日御施行之旨 高田遠江守相共莅彼所
打渡下地於 新田治郎大輔代之処也 仍渡状如件
  貞治三年(一三六四)十一月廿日
    前駿河守師綱 殿
 以上から岩松兵衛蔵人義政生害説の誤伝は疑問なく認めてよいと考える。
 因に多くの武将は最後まで生害しなかったことは、『太平記』第卅九において岩松直國が岩殿山の戦いにおいて足利基氏の馬揃で功を樹てた條に「鎌倉左馬頭基氏の御坊に岩松治郎大輔直國は能く慮あって計る人なりければ、大将左馬頭殿の鎧の毛を敵何様見知りぬらんと推量して、御大事に替らんと思われければ、我今まで著給へる紺絲の鎧に、鎌倉殿の白絲の鎧を俄に着替へて控へたる。暫くあって戦いけるに、岡本信濃守白絲の鎧着たる岩松を左馬頭殿ぞ組んで討たんと馬寄ける時、岩松が郎党金井新左衛門、岩松の馬前に馳塞り岡本と引組み馬より落ちけるが、互いに中にて差違えて共に命を止めてけり」と叙述している。
 このように直國は基氏の命に代らんと鎧を着替え、郎党は直國に代って討死するなど、当時の武将達は影武者を備える時代であり、落日の南朝方の支柱となって孤塁を守る立場の蔵人義政敗れても再起を期し、旗本を従えて戦場を脱出することはあり得ることで岩松義政生害説は俄に信じ難い。
 すなわち時代が遡ると徴古資料に乏しく、またその信憑性について過去帳は一級史料ではあるが寛永頃(一六二四)までといわれ、また一般の家系書類は慶長頃(一五九六)までが限度といわれている。
 これは度重なる戦乱によるものであり、殊に六十年の永きに亙って死闘を繰返した南北朝の抗争では、敗れた南朝方の志料は意図的に隠滅された。
 因に田中義成は著『足利時代の研究』において「新田族の事蹟は不運にも霧に掩われて鮮明を欠き、一族の中には『新田族譜』にも見えない仁があり、これは新田方の文書記録の殆どが絶滅に帰した為である」と述べている。
 また斉藤秀平も著『吉野朝の越後勤王党』において「越後勤王党の事蹟は誤謬少からず且つ異本多く、『太平記』以外には伝ふるなし」としている。
 従って伝えられる岩松兵衛蔵人義政の世良田舘で自裁説は、世良田伊予守義政生害の誤伝であることは他の野史の示すところであり、また遡って延元二年(一三三七)金崎城生害説は独り『寛政重修諸家譜』に誌すのみにて他書に見えず、混乱時代の所産であろう。

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更新日:1997年8月19日