『越後岩松家私史』

岩松一雄


二、岩松氏本宗滅び後二流となる

 岩松氏は足利流にして遠祖足利上総介義兼の子義純は新田大炊介義兼の女を娶り時兼を生み、時兼は母来王御前の御化粧免新田荘十二郷を譲られ、嘉禄二年(一二二七)地頭職に補せられ岩松氏の祖となった。(『新田氏の盛衰』)
 時兼の子経兼は徳川義季長子頼有の女を妻とし下野太郎政経を生み、政経には兵衛蔵人義政、頼宥(岩松禅師)、兵部大輔経家および直國の四子を儲けた。
 岩松氏は義貞の挙兵に与し総領義政は本領守備に任じたが、尊氏謀叛に及ぶや上毛の地に於て抗戦し終る処知らず、之れにより岩松本宗亡ぶとされた。
 義政の弟経家は義貞の鎌倉攻めに従って功を樹て、元弘三年(一三三三)飛騨國守護(『由良文書』)に任じ、やがて足利尊氏叛乱には宮方の将として戦い建武二年(一三三五)次兄頼宥と共に武蔵國女影原にて討死した。(『新田族譜』、『梅松論』)
 経家の名跡については『新田岩松先祖書』に曰く「経家、建武二年(一三三五)戦死、女影原、経家子泰家年猶幼、経家弟直國、依祖父政経命、執家事、近侍足利基氏、従干巌殿山軍有功、賜兄義政缺地、及泰家長、譲与新田本領」とある。
 すなわち経家跡は末弟直國が嗣ぐや『守門村史』に「何を思ひけん岩松氏は宮方より武家方に代り独り栄えた」とあり、また岡部精一は『新田氏の盛衰』において、直國武家方に転じて長兄義政缺所と義貞歿領を併せ安堵され大いに栄えたと記している。
 経家の子泰家が長ずるに及び、直國は家督を泰家に譲って別家したが泰家に一男一女があり、嫡男は満國と称して家を嗣ぎ女子は新田義家の孫義宗の室となり容辻丸(後の満純)を生む。(『新田岩松家譜』、『姓氏大系』)
 新田義宗の歿後遺児容辻丸が越後に隠れ住むを哀れとして、岳父満國は窃に生母と共に容辻丸を襁褓の内から邸内で養育した。(『新田氏の盛衰』)
 満國は一子満氏早世するや容辻丸を実子として披露し、長じて満國の跡を継ぎ治郎大輔岩松満純と号した。(『上野國新田郡史』)
 応永廿三年(一四一六)上杉禅秀は、足利持氏の関東における鎖國体制の不満から討幕の挙兵を催すや、禅秀の岳父甲斐の武田信満および禅秀の女婿である岩松満純も禅秀方に組したが、満純の参戦理由は他に祖父義貞の悲願である王業恢復にあったことは、史家の等しく容認するところである。(『新田氏研究』)
 禅秀は緒戦において持氏を追い落して一時実権を掌握したが、その後兵勢は振わず禅秀は自害し、満純独り遁れて上野國に還り残党を集めて再挙を計ったが捕へられて、応永廿四年(一四一八)五月十三日鎌倉竜ノ口にて斬られた。
 満純の嫡子土用丸は世良田の長楽寺で剃髪し源慶と称し甲斐の武田方に走ったが、後美濃國土岐氏の許に隠れ住み、満純跡は直國の孫持國が継いだ。  当時持國の知行は新田荘十九箇村殆ど全部を領し、西は利根川から武蔵に亙り最も有力な豪族であり、ために幕府は岩松氏を重んじた。(『新田氏の盛衰』)  将軍義教は永享十年(一四三九)源慶の還俗を許し、新田治郎大輔岩松太郎家純と名乗らせ、永享十二年(一四四〇)の結城合戦には幕府方総大将として勲功を樹てた。  長禄元年(一四五二)将軍義政の弟政知が堀越公方となるや、関東諸豪の結束を促すため持國の所領を割き家純に分与せしめ、これにより岩松氏二流となり将軍方として新田荘に併立し、世に家純方を礼部家、持國方を京兆家岩松氏と唱へた。
 分族後礼部家岩松家純は武州五十子に移って堀越公方政知に味方し、持國は岩松郷に在って古河公方成氏に属したが、長禄二年(一四五八)礼部家岩松家純の斡旋により京兆家岩松持國父子は成氏を離れ政知方に投じ、更に寛正二年(一四六一)再び成氏方に帰属するも振るわず甲斐の信玄方に走り、永禄年中(一五五八)碓氷郡後閑の地を賜り姓を後閑と改めたので、京兆家岩松氏は名実共に消滅した。(『姓氏大系』)
 これに反して礼部家岩松氏は結城攻めの功を賞せられ、室町期を通じ関東武士団を統率して大いに活動した。(『みやま文庫』)
 文明元年(一四六九)家純は金山城(太田市)を修築して関東七名城之一を誇ったが、明応三年(一四九五)孫尚純城主となるや風雅を好み家老横瀬泰繁の専横に委せたので、嫡子昌純は恨みこれを討人として敗れ天文六年(一五三八)昌純は泰繁らに弑叛された。
 昌純の跡は弟の氏純が継いだがすでに兵馬の権は横瀬氏に帰したので、氏純は桐生の地に退いて沈淪久しく悲運の裡に自盡した。(『大人名辞典』)
 氏純の子守純の代に徳川家康が関東に移封され、慶長十六年(一六一一)領内巡視の折川越城で守純、豊純父子を謁した時家康は新田氏の名家なるを賞め、岩松古系図の借用を請うたところ守純敢へて応ぜず、本多正信誘引するも聴かず家康大いに怒って席を立ったと伝えられている。(『上野國新田郡史』)
 之れにより守純は舊領悉く歿収され、改めて新田郡市野井村感応寺曲輪縄手に高二十石旗本扱いとなり、後下田島に移った。(『みやま文庫』)
 その後将軍家綱これを憐み守純嫡孫秀純を招き、寛文三年(一六六四)新たに百石を加増して同祖の礼を与へ、交代寄合衆抑え間席で御慶参府となった。同祖とは、岩松時兼の嫡男経兼は新田頼有(徳川義季嫡男)の女を娶り政経(義政、頼宥、経家、直國の父)を儲けたので、徳川家と岩松氏は姻籍として遇したものである。
 因に曽て満純が禅秀の乱に敗れて鎌倉で斬られ封土歿収の際、家臣の正木新左衛門が『岩松文書』の写しを桐生に隠匿したものを、子孫の吉田梅庵が将軍吉宗に献上した『岩松古文書』は詳細で「新田政義之従大叔父徳川義季、半預干政義之従弟岩松遠江太郎時兼之母(来王御前)云々」との古文書の存在を知り、家康は源家征夷大将軍の掟の必要上から、この岩松古系図を利用したといわれる。
 やがて世は徳川の治世が続き、礼部家岩松氏は久しく上毛の地に逼塞したが、維新となるや政府の南朝正統論から忠臣顕賞の機運に際会し、時の日本歴史学会の上申にて岩松満純は新田氏本宗義宗の遺孤也、すなわち家譜に「岩松左馬助満國、嫡子治郎大輔早世、満國養子甥容辻王丸、為容辻者、新田公義貞孫、義宗之次男也」とあるところから忠臣義貞の正統と勅定され、明治十六年(一八八四)当主岩松俊純は新田姓に復して男爵を授けられたので、礼部家岩松氏も京兆家と同様に改姓によって消滅した。(藤田精一『新田氏研究』、藤生竹松『新田勤王史』)

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更新日:1997年8月19日