書評『宮沢賢治の地的世界』

岩松 暉(GUPI Newsletter NO.43, p.4, 2006)


 日本人なら子供でもみな宮沢賢治を知っています。でも賢治が地質家だったことを知っている人は少ないのではないでしょうか。「天河石 心象のそら うるはしきとき」と詠ったとき、賢治がどのような空をイメージしたのか、天河石amazoniteを見たことのない人には、本当のところはわからないでしょう。万巻の賢治研究書・解説書は出ていますが、その点で、物足りない感じを持った者は評者一人ではないと思います。
 この度、加藤碵一氏(産総研理事・GUPI会員)による標記の著書が上梓され、その思いが満たされました。加藤氏は3月まで産総研東北センター長をしておられましたから、地の利を活かして、賢治の母校である岩手大学農学部(旧盛岡高等農林)に現存する賢治採集標本はもとより、賢治在籍当時の教室所蔵標本や蔵書を綿密に精査されましたし、地質家らしく賢治の調査地を実地踏査もされました。さらに、古い書籍が一番たくさん保管されている産総研におられる立場も大いに活用して、賢治が読んだり購入したりした洋書や和書に全部当たられ、賢治存命中の地質学の実態に根ざした考証をしておられます。例えば、「わづかその一點にも均しい明暗のうちに(あるひは修羅の十億年)」という一節があります。普通の本の脚注には10億年前は先カンブリアの原生代と書かれていますが、当時の定説では地球の年齢は十億年程度と考えられていましたから、賢治の心象風景としては地球誕生の頃をイメージしていたのだろうと指摘されています。多細胞生物が出現した頃よりも、カオスの時代を想起したほうが、前の語とのつづきが理解できます。
 本書は5章からなっていますが、分量からいっても2章「賢治の地質学のその背景」、3章「賢治作品を理解するための地質学的知識」がこの本の主眼です。2章では、今の学生ではとても読みこなせないような原書まで熱心に講読していた勉強家であったことが跡づけられています。3章では、今では死語になっている術語や地質学的概念が文献に基づいて丹念に解説されています。総じて、著者の博覧強記ぶりが伺われ、頭が下がります。
 賢治は理学ではなく実学としての農林地質学を学び、大地に根ざした実践を行いました。それ故不満としては、地学という意味の「地的世界」だけでなく、大地という意味での「地的世界」も「筆者の興味外」として切り捨てることなく、論じて欲しかったと思います。
宮沢賢治をもっと深く知るための必読書として、とくに若い方々にお薦めします。
加藤碵一著『宮沢賢治の地的世界』 愛智出版、142pp、2006年11月刊
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更新日:2007年12月11日