記念碑が語る桜島大正噴火

鹿児島大学地域防災教育研究センター特任教授 岩松 暉(鹿児島南ロータリークラブ週報vol.55,no.29)


 日本列島は活動期に入った。2011年の超巨大地震で日本列島の応力場(力のバランス)が変化し、いつ何が起きてもおかしくない状況にある。実は100年前南九州でも同じようなことが起こっている。1913年真幸地震や日置地震が発生、霧島山御鉢も噴火し、トカラ列島でも火山活動が活発化した。南九州一帯が地学的に騒然となった時期に1914年桜島が大規模な噴火をしたのである。わが国が20世紀に経験した最大の噴火であった。  これを記念する石碑が60基近く県内各所に建立されている。しかし、寺田寅彦が指摘するように“八重葎の中に埋もれ”、人々の記憶から消え去っている。桜島噴火は島内のことと受け止められ、他人事になっているのが実情である。記念碑を建てた先人はわれわれに何を語りかけたかったのであろうか。内容は大別して次の4つである。①噴火の経緯を述べ、噴火は不可避だから迅速な避難が肝要と教訓を伝えようとしたもの、これは桜島島内や鹿児島市内および近郊に多い。②高隈山系を源流に持つ河川沿いに、土石流や洪水が10年近く続いたため、堤防や堰の改修を繰り返さざるを得なかったし、降灰に埋まった土地の耕地整理には苦労した。串良川沿いに10基もある。③姶良カルデラを中心に地盤沈下も発生、干拓地や塩田が水没した。その後の台風では高潮にも苦しめられた。海岸堤防の復旧が不可欠であった。錦江湾奥部に集中してある。④溶岩や分厚い軽石火山灰で埋まって耕作不能になったところでは移住しか選択肢がなかった。指定移住地は国有林の原野、開墾には言語を絶する困難を伴ったし、飲料水の入手にも苦労した。その開拓魂を子孫に伝えようとしたもので、大隅半島や種子島あるいは宮崎県小林市にある。

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更新日:2013年2月6日