「知らせる努力」から「知る努力」へ~“土砂災害”を例として~

鹿児島大学名誉教授 岩松 暉(H22年度防災啓発研修講演会)


1.はじめに

 現在(2010年)、口蹄疫問題で宮崎県は深刻な事態にある。しかし、宮崎県は2000年にも口蹄疫を経験している。最初に獣医が県の家畜保健衛生所に届けたにもかかわらず、担当者は過去の例と症状が異なるとして見落とし蔓延させてしまった。風評被害や結果的に狼少年になったときの責任問題が頭をよぎったのかも知れないが、要するに経験主義である。自然災害の場合にも経験主義が災いすることがよくある。前回の大雨の時にも大丈夫だったから、今回も大丈夫だろうと、避難勧告に従わず、被災した例は枚挙にいとまがない。
 本年(2010年)2月のチリ地震津波では約170万人に避難勧告や指示が出されたが、避難所に避難した住民はピーク時でもわずか3.8%にとどまったという。毎回津波情報は大げさだと高をくくっていたのと、津波の高さ数10cm程度なら膝ぐらいだから大したことはないと判断した人が大部分だったのだろう(図1)1) 実際には、怒濤の如く押し寄せる漂流物を含んだ奔流だから、数10cmではとても立っていられないのだが…。今回は地球の裏側で起こった地震だったから、繰り返し津波情報がテレビ等で流されたので、津波は沿岸に近づくと高くなるとか、1波だけでなく2波3波と来るといった知識はかなり浸透していたが、避難行動に結びつかなかった。頭の中だけの知識ではダメな好例であろう。
 毎年、梅雨の前になると、県や市町村の広報紙で防災特集が組まれ、全戸配布される(図2)2)。それには必ずがけ崩れのメカニズムや前兆現象などの解説が書かれている。首長さんを先頭としたセレモニー的防災点検も行われ、行政は一生懸命「知らせる努力」をしているが、どうもこうした手段だけでは限界に来ているのではないだろうか。そこで今回はメカニズムなど理工学的な理屈の話は一切省き、どうしたら地域防災力を高めることができるか、一緒に考えてみたい。

2.“土砂災害”のなくならない理由

 昨年、政権交代になり、「コンクリートから人へ」という言葉が流行って、公共事業は諸悪の根源のように言われて来た。しかし、営々と社会資本を整備してきたからこそ風水害による犠牲者数が確実に減少してきたのは事実である(図3)3)。ではこれをゼロまで持って行くことは出来るだろうか。天気予報の的中率50%ならコイントスでよいし、これを55%にするためには観天望気で十分である。現在、翌日の降水予報の的中率は5年平均で82%という4)。人工衛星を上げ、スーパーコンピュータを駆使してもこのくらいである。これをさらに5%上げるためには指数関数的に費用がふくらむ。“土砂災害”防止も然り、もはやハード対策だけでは限界に来ていた。そこでソフト対策重視に方針転換したのが2000年に制定されたいわゆる土砂災害防止法である。
 お金だけでないもう一つの理由がある。地すべり・崩壊・土石流などの総称として“土砂災害”なる言葉が永年使用されてきた。しかし、厳密には正しくない。上記はいずれも地質現象であって、人命や財産に被害が出て初めて「災害」となる。無人島でがけ崩れがあっても「災害」とは言わないのである。浸食・運搬・堆積といった言葉を中学理科で教わったことと思う。地すべり・崩壊は浸食作用の大規模なものであり、土石流や洪水は土砂を下流に押し流すもっとも効率的な運搬作用である。つまり、風化が進行して肥沃な土壌が生成されると、それは力学的弱化を意味するから、地すべりや崩壊が発生し、その崩壊土砂が土石流などによって下流に運ばれ、われわれの住む平野が形成されたのである(図4)。
こうした地質現象は人類誕生以前から存在していた。いくら科学技術が発達しても、自然を現状のまま固定することは不可能である。不老長寿を願うのと等しい。いわゆる“土砂災害”がなくならないのは、コスト面だけでなく、自然の摂理だからである。それにコンクリートの寿命はたかだか100年、高度成長期に造ったコンクリート構造物の寿命が一斉にやってくる。やがて劣化の問題が深刻となろう。したがって、力で自然を征服するやり方から、自然とほどほどに仲良くつき合って行くやり方に転換しなければならない。

3.危険分散こそ防災の基本

 そうなるとソフト的に対応せざるを得ない。それには地域の自然をよく知ること、自然の仕組みを理解することが重要となる。われわれの祖先は崖下地や土石流扇状地には住まないなど、敬して遠ざかる生き方をしてきた。図5は典型的なシラス台地の地形である。崖錐は土砂崩れの崩積土が造った地形だから、元々危ないところだ。明治頃までは西郷屋敷までが宅地で、崖錐は雑木林や畑になっており住宅は建てていなかった。祖先は自然を熟知していたからである。そこに現在では住宅が進出している。
 対策工も強引に自然を征服するやり方ではなく、軽くいなす方法を採ってきた。武田信玄の霞堤などが好例である。こうした祖先の知恵に学ぶべきではなかろうか。
 現在、“土砂災害”が頻発するところは中山間地と都市近郊丘陵地である。前者で“土砂災害”が多いのは、山が荒れてきたことに起因する。農林業が衰退し、山は誰も手入れをしなくなった。風倒木も多い。倒木の根元から水が侵入して崩壊を誘発したり、倒木が土石流被害を増大したりしている。至る所に道路を建設して山を切り開いたのも“土砂災害”を拡大した。これもやむを得ない面がある。村落の商店は閉鎖し、無医村も増大した。都市郊外の大型ショッピングセンターや病院へ出かけるには車が必需品になったからである。
 後者の都市災害は、人口の都市集中に伴って、郊外の丘陵地に団地が造成されたから起きたのである。平野縁辺部の丘陵地は概して軟岩からなる。当然、地すべりや崩壊に弱いところである。平野部に収容しきれなくなって、危険なところに近づきすぎたのである。三大都市圏に日本の人口の半数が住んでいるという。鹿児島県でいえば、県民の3人に1人は鹿児島市民である。このような一極集中は異常である。
 両者別々の現象のように見えるが、実は根は一つ、地方で生業が成り立たなくなったから、若者が都市に流出せざるを得なかったのである。昭和30年代まで就労人口の過半は農業だった。工業立国・貿易立国をするためには、労働力を都市に集めなければならない。農産物の輸入自由化と減反を行って農業を潰し、農民を労働者に転業させて沿海部のコンビナートに集めた。ある意味では非常に大局的な視野に立った有効な施策が行われたのである。つまり、過疎と過密の同時進行は必然であった。今もまだその惰性が続いている。歴史の転換点にいるのに、である。
 災害のソフト対策は危険分散が基本である。近視眼的な費用対効果論から言えば、都市への集中投資が当然といえよう。狭い沿海平野に超高層ビルが林立する次第となる。しかし、最近長周期地震動に対する脆弱性などが注目されている。メガクェークが太平洋ベルト地帯を襲ったら、日本全体の経済に決定的ダメージを与える。一刻も早く人口の分散化を図る施策が求められている。それが“土砂災害”の軽減へ直結するのである。地方で生業が成り立つような国家百年の大計を考えた政治を切望する。

4.“土砂災害”への備え

 とはいえ、責任を全て政治のせいにして手をこまねいているわけにはいかない。特に最近は温暖化のせいか、極端なゲリラ豪雨が頻発するようになったし、海水温が上昇したためか、日本近海で台風が発生、いきなり本土を襲ってくることもある。また、「大地動乱の時代」5)になり、地震も頻発し、新潟県中越地震で有名になったように、地震に伴う地すべりや崩壊も多発、造地形運動としての地震のもつ意義が再認識されつつある。やはり、“土砂災害”に対する備えを怠るわけにはいかないのである。

(1)中山間地

 中山間地ではいわゆる限界集落(無住化危惧集落)の問題が深刻である。消滅集落も実際に起きている。そこまで至らなくても、いずこも超高齢化が進行している。こうした高齢者の手によって山はかろうじて支えられているのである。実際に“土砂災害”が起きたときには、彼らは直ちに災害時要援護者となる。生活道路が不通になると、孤立集落になる可能性も高い。ではどうしたらよいのであろうか。やはり早め早めの避難勧告と共助・公助が重要であろう。鹿児島県垂水市では2005年の台風14号で5名の犠牲者を出した。これを受け、鹿児島県では翌年3月全国のトップを切って土砂災害警戒情報の提供を開始した。同市でもハザードマップの作成配布・避難訓練などが実施された。2年後の2007年台風4号により再び被災したが、半日ほど前に避難勧告が発令され、ほとんどの住民が避難所に避難していたため、人的被害はゼロであった(図6)6)。高齢者の場合、さまざまな理由でなかなか避難勧告に従わない気むずかしい人が多い。鹿児島県薩摩川内市東郷町のある集落では、「○○おばあちゃんは○○子ちゃんの言うことなら聞く」とか「○○おじいちゃんは消防団長の言うことだけは従う」といった防災人脈図を区長さんが持っており、誰の車に誰が乗るまで決めていたらしい。2002年の台風9号災害では、これが大いに役立ったという。
 高齢者が多いからといって、必ずしも災害知識を伝承しているとは限らない。“土砂災害”の周期は100年以上だからである。しかし、過去の災害についてはぜひ語り継いでいただきたいものと思う。1982年長崎豪雨災害では299名の犠牲者のうち262名は“土砂災害”によるものであった7)。長崎市太田尾町山川河内(さんぜんごうち)地区も被災したところだが、人的犠牲はゼロであった。同集落は万延元年(1860)4月9日に“土砂災害”で32名の犠牲者を出している。同13日には9名の行方不明者を残して捜索は打ち切られ、14日に供養の饅頭を配った。以来150年間、毎月14日に「念仏講饅頭」が各家庭に配られている8)。同時に災害の教訓も引き継がれてきたのだ。1982年には、「山がゆれた、においがした、石垣の水が泥水に変わった」のを見て、自治会長が山の稜線に皆を避難させたのだという。今でも「2番目の砂防ダムから水が出たら逃げる」と決めているとのことである。
 桜島の大正噴火でも測候所(現地方気象台)が「桜島に噴火の恐れなし」と言い続けていたにもかかわらず、安永噴火の言い伝えが残っていたので、島民はいち早く自主避難し、わが国における20世紀最大の噴火にもかかわらず、犠牲者は最小限にとどまった。しかし、それから100年、島民は毎年噴火当日の1月12日に総合防災訓練をしているが、島外ではほとんど他人事である。大量の降灰が積もった大隅半島では、噴火後7~8年間、降灰に起因する“土砂災害”や水害に悩まされた。堤防や堰を修築しては決壊するといった賽の河原の繰り返しだったらしい。改修記念碑が3つも残っているが、現在ではその石碑の存在すら知られていない(図7)。現代の災害民話が必要なのではないだろうか。
 一方、高齢者は先にも述べた経験主義に陥りやすい。いわゆる「正常化の偏見」を若い人以上に持ちやすいことも考慮しておく必要がある。日常的な防災啓発によって、集落ごとに一人は「率先避難者」を用意しておくことも重要と思う。頑丈で居住性の良いバリアフリーの公民館を安全な地点に建設しておくことも大切である。今回のチリ地震津波で避難所があまり利用されなかった理由のひとつに、居住性の問題が指摘されている。

(2)都市丘陵部

 都市に限界集落はないが、かつての新興団地の高齢化が問題になっている。子供が成長して出て行き、団塊の世代の親たちが残るケースである。都会にも限界地域は存在するのだ。団塊の世代は元々会社人間だったから、近所づきあいがなく、孤立していることが多い。最近は無縁死という言葉まで出来た。自治会(町内会)も行政の下請けとして行事が多く、行事疲れしており、役員のなり手がいない。ローテーションで役員が回ってきそうになると、事前に自治会を脱会するケースもある。脱会すると後ろめたいから、なんとなく疎遠になる。地縁社会を形成するはずだった自治会が、逆に地縁社会の脆弱化を促進する皮肉な結果となっている。
 しかし、地域防災力とは、煎じ詰めれば「ご近所の底力」である。地縁社会の再建が望まれる。阪神淡路大震災の時、北淡町では、どの家に老人がいてどの部屋に寝ているかまで、近所の方が知っていたので、ピンポイントでそこを探し、自衛隊到着前に全員救出したという。都会では昔から「隣は何をする人ぞ」といった風潮だったが、最近は個人情報保護の観点から、ますます無縁社会になりつつある。民生委員は災害時要援護者が誰か知っているが、防災のためにその名簿を流用できない。自治会員名簿さえ作成を中止したところもある。行きすぎた個人情報保護は考え直す必要があろう。
 こうした無縁社会でどのように防災知識を伝達したらよいのであろうか。鹿児島県が2009年度に土砂災害警戒区域の指定について説明会を開いたが、前述の旧東郷町は半数近く参加したのに対し、鹿児島市内では極めて少ない。しかし、戸別アンケートを実施した結果では、“土砂災害”に対する認識が変わったとする人が60%を超している(図8)9)。手間暇は大変であるが、こうした口コミが重要なのだろう。
 最近は郷土史ブームである。「歴女」なる言葉も登場した。郷土の歴史を知るウォーキングも盛んである。この時に、神社仏閣は地すべりの不動地に立地していることが多いとか、中世の山城は自然の浸食地形を巧みに取り込み河川の攻撃斜面を要害として利用しているといった、地域の自然のことも織り交ぜて解説してもらえば、防災教育につながる。都市住民の多くは他所からの移住者だから、その地域の自然に無知なことが多いからである。天文・地文・人文すべてを含んだトータルとしての地域を知る機会を多くつくり、彼らの知的好奇心に訴えるのである。たとえば、図9は国指定史跡知覧城である。中世の山城だが、シラス台地のガリ浸食を巧みに利用している。ここの斜面は1993年災害で崩れた。 図10は鹿児島市の地形である。なぜこんな猫の額のようなところに県庁所在地があるのだろうか。実は、鎌倉時代以来、下克上にも遭わず、同じお殿様が治めてきた国は薩摩藩くらいなものである。都から離れた僻遠の地で中央の政争と無縁だったことも幸いした。島津氏が鹿児島に最初に築いた城は東福寺城という山城である。楠木正成の赤坂城のように、中世の戦闘様式に最も適した場所だったからである。日向からの軍勢に対しては姶良カルデラ壁の天険がある。現在の国道10号は明治天皇行幸に際して突貫工事で開通したものである。本来の大隅街道(大口筋)は急峻で軍馬は通れなかった。肥後からの軍勢は甲突川に沿って来るしかない。現在の国道3号である。ここには河頭(こがしら)峡谷があり、僅かな手勢で大軍を防ぐことが出来る。南から水軍が来た場合には向島(現在の桜島)という不沈艦があり、挟み撃ちにできる。こうした島津氏の意図が実証されたのが1993年の鹿児島豪雨災害である。両方の国道が“土砂災害”で同時に不通となり、一時陸の孤島と化した。もしも下克上が行われ、近世の平城が造られているとしたら、今頃県庁は国分平野にあったであろう。こうした丸ごと地域を知る催しがあっても良いのではないだろうか。 リタイアした団塊の世代は知的好奇心に富み、行動的だからである。こうした世代に受け入れられるやり方を工夫する必要があろう。ハザードマップ(図11)10)なども配布しっぱなしではなく、こうした機会に解説してもらえれば、血肉となろう。町おこしのNPOなどと連携すればよい。  なお、リタイアした団塊の世代には、現役時代にその道のエキスパートだった人たちも多い。たとえば、倒壊した家屋から人を救出するときに、邪魔になる柱はどれでも切って良いわけではない。構造材を切ると全体が潰れ、かえって生きている人を殺す結果になることもある。そんなときに大工さんがいると心強い。もちろん、地質屋さんや砂防屋さんなど、防災に直接関わってきた人たちは貴重な人材である。そうした人たちを日頃から組織しておきたいものだ。防災NPOのようなものができないものだろうか。あるいは自治会とは別に防災会があってもよいのではないだろうか。ここで平常は、地域の自然や“土砂災害”の前兆現象といった災害教育を行うのである。もちろん、被災時には、応急部隊として活躍する。
 “土砂災害”の場合、未明や夜間に起きることが多いが、都会では昼間だと屈強の働き手は都心部に出勤していて、老人と女子供だけで対応しなければならないことになる。こうしたときの対策を行政は考えておく必要がある。

5.おわりに

 孫子の兵法には「敵を知り己を知れば百戦危うからず」という有名な言葉がある。敵、すなわち自然災害自体の話は省いて、己、つまり地域の自然を知ることだけ述べてきた。しかし、災害知識が不要というわけではない。ただ、津波のところで述べたように、頭でっかちの知識にとどまり、行動に結びつかなかったらダメなのである。桜島大正噴火では、生き物としての本能に基づき避難した人は助かったが、測候所の言を信じた知識階級は逃げ遅れ、犠牲者を出してしまった。東京都のある区報に、「大雨時にはインターネットを見ましょう」とあった(図12)。気密性の高い部屋でテレビやラジオだけから情報を得ていたのでは、実感を伴わない。これではまずいのである。私は、円筒型のコップを窓の外に置くことを奨めている。時間雨量が50mmを超すようだと避難したほうが良い。集中豪雨は非常に局地的に降ることが多い。気象台の観測ネットよりも豪雨セル(降雨強度の強い部分)は小さいのである。自らの判断で避難することが重要な所以である。そうした観測もさることながら、時々気密性の高いサッシ窓を開けて降雨状況を肌で感じることのほうが大切なのである。もっと「生き物としての第六感」を研ぎ澄まそうではないか。もちろん、窓を開ければ消防車のアナウンスも聞こえる。
 従来、安心安全は御上任せで自らは動かず、何かあったら住民は行政の非を追及する、といった図式が多かったように思う。そこにアメリカ的訴訟社会が浸透し始め、それに輪をかけているように思われる。これは御上至上主義の裏返しであって、健全な市民主義ではない。 今、地域主権が叫ばれている。行政の縦割りのパイプを通じて中央から金を引き出す従来方式から、役所内の縦割りだけでなく、官民学の壁も超え、地域住民が一体となって主体的に地域振興を図る時代になったのだ。防災も防災部局だけの担当ではなく、安心安全で文化的な町づくりの一環として位置づけ、全部局が一丸となって日常的に取り組むべき課題である。さらには、行政だけでなく、商工会や観光協会、博物館や大学、町づくりNPOや郷土史の会等々さまざまな組織とも協働することが重要であろう。もちろん、自主防災組織のような防災に特化した組織もあるに越したことはないが…。
 幸い最近ようやく自助・共助・公助といった言葉が普及し始めた。この三者を有機的に結びつけるシステムを構築することが、地域防災力向上の要なのだろう。行政の「知らせる努力」だけでなく、地域住民も「知る努力」をする必要がある。  今日の参加者は「知らせる」側の消防関係者だろう。全国的にハザードマップは整備されてきたし、防災広報も十二分に行われるようになった。砂防方面では土砂災害防止法に基づく警戒区域の設定も着々と進行している。「知らせる努力」はもう十分だし、その限界も見えてきた。これからは制服を脱いだ時、一市民として一自治会員として何が出来るかを考え、地域住民と共に行動するときなのではないだろうか。

参考文献

1) 群馬大学災害社会工学研究室(2010):平成22年2月28日チリ地震津波に関するアンケート,43pp.,http://dsel.ce.gunma-u.ac.jp/uploads/photos/230.pdf
2) 鹿児島市(2010):かごしま市民のひろば 安心安全特集号
3) 鈴木雅一(2009):土砂災害の変遷に与える植生変化の影響,sabo. Vol.100,2-7.
4) 気象庁(2009):天気予報の精度検証結果, http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/kensho/yohohyoka_top.html.
5) 石橋克彦(1994):大地動乱の時代―地震学者は警告する,岩波新書,234pp.
6) 鹿児島県土木部砂防課・(財)鹿児島県建設技術センター(2007):砂防メールかごっま,第9号
7) 松井宗廣(2009):地域の絆「念仏講まんじゅう」,sabo, Vol.100, 34-39.
8) 川原 孝(2004):災害の伝承,1982年長崎豪雨災害報告書,内閣府,243-244.
9) 橋口哲也(2010):土砂災害防止の推進に関するアンケ-ト調査の中間報告 戸別訪問による土砂災害警戒区域の住民への周知(試行),がけ協会研究発表会資料
10) 鹿児島市(2009):土砂災害ハザードマップ~土砂災害に備えて~

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更新日:2010年7月2日