戦 時 南 方 の 石 油
岩 松 一 雄 著
第3章 陸軍南方燃料本部の業績
3.1 本部と工廠の組織
開戦と共に陸軍は進駐地サイゴンにおいて南方燃料廠を設立し、東南アジアの産油地域のうち、海軍が優先的に提示した蘭印ボルネオ(山田清一中将証言)および、ビルマ・英領ボルネオ・南北中スマトラの産油地に支廠を設置する編成であった。ジャワ油田については、日石資料で開発以来60余年にして老朽したと考えられていたことと、兵站が長大であることから除外されていた。
シンガポールの占領なるや昭和17年5月、本部を昭南市ハブロックの移民局の豪壮な建物に進駐した。
やがてジャワ油田が第16軍自活のため軍直の工兵隊によって占領復旧され、南方油田中第4位の新興油田の存在が明かとなったため、17年6月に至りジャワ支廠を新設して6支廠となった。
19年春本部庁舎は博物館裏丘陵、フォートカニング要塞の英国極東軍司令部(司令官パーシバル将軍)庁舎に移転した。
昭和19年4月南方燃料廠は南方燃料本部、支廠は工廠と改称され、その機構は下記の如くであった。
ビルマ工廠(ラングーン)
鉱業所―エナンジョン,チョーク,ラニワ油田
精油所―シリアム
ボルネオ工廠(セリア)
鉱業所―ミリ,セリア油田
精油所―ルトン
南スマトラ工廠(パレンバン)
鉱業所―第1.リマウ(リマウ油田群)
第2.ペンドボ(アバウ油田群)
第3.クルアン(ダワス油田群)
第4.パジュバン(ジャンビ油田群)
精油所―第1.プラジュー
第2.スンガイゲロン
中スマトラ工廠(アイルモレ)
鉱業所―リリック,ミナス,ドゥリ,セバンガ油田
北スマトラ工廠(ペンカラン,プランダン)
鉱業所―ラントウ,パルタブン,パンカランスス油田
ジャワ工廠(スラバヤ)
鉱業所―第1.ウォノサリー(カウェンガン)油田
第2.クルッカ,リダクーロン油田
第3.ヌグロボー,レドック,スアンギー油田
精油所―第1.ウォノクロモ
第2.チップー
陸軍南方燃料廠編成人員は、昭和19年9月現在で軍人軍属の合計8,307名、現地人工員と臨時工102,000名の計11万307名に達した。(『帝石50年史』) その編成は、東部85部隊の第21野戦兵器廠(永幡節誕中佐)、さく井中隊4、電気中隊1を中核とする軍人と新任の技術将校328名が配属された。
また軍属には内務省・商工省・工業技術院・台湾総督府・陸軍燃料廠の技官や東大・京大・東北大・北大の地質学・有孔虫化石・地球物理学の教授が嘱託として採用された。尚久留米医専は南スマトラ、ジャンビに病院を開設して現地人従業員の治療を実施した。
主力は国民総動員令によって帝石・日石・満石・丸善・三菱各社の採油・精油技術者と新潟鉄工・大阪機械・神戸製鋼・ダイハツなどの機械メーカーおよび利根ボーリング・日鉄鉱業などから徴用された5,302名で、破壊油田の復旧 と精油所の再建並びに生産に従事した。(18年9月現在)
3.2 本部長山田清一中将
山田清一中将は砲兵科出身の秀才であり、決裁書類を本部長室に持参すると、閣下は先ず赤鉛筆を手にしてから説明を求められることが有名であった。
また高等官食堂の本部長席背後の壁面には、北部ヨ-ロッパの大地図が掲げられ、刻々の独軍最前線が太い朱筆で記されていたが、この地図に対する説明は一度もなかった。
やがて独軍が後退をはじめても現位置が記入されるので、日々食堂には重苦しい空気が漂ったが、閣下は常に微笑を浮べ泰然として居られたことは、極めて印象的であった。想えば閣下は期するところあってか、終戦時第5師団長として自決され、ご指導を受けた一人として巨星地に落つの感を深くして惜しむものである。
昭和18年秋のある日閣下は、食後「私がサイゴンで編成作業中最も心を砕いたことは、軍人と民間人との協調の問題であって、3日間悩んだ後に、職責に 対して待遇するという結論を得たよ」と述懐されたことがあった。
すなわち宮中席次によれば鉱業所長が少尉の下風に立つことになるが、このような不合理を排して、「軍人は管理するが指揮せず」の基本方針が、全工廠に定着したことは極めて重要である。
また本部長は技術問題にも強い関心を示されたが、ある時油井管に穿孔するための坑内弾丸穿孔器(gun-perforator)用火薬を全工廠1ヶ年の所要量3tの内地追送請求の決裁を申出たところ、「1発の薬量はいくらか」との下問があって、「無煙火薬9gであります」との答に、「水深で薬量の調合が違うのではないか」と砲兵科出身だけに鋭いご質問に、「油井内では最大浸透力が要求されるため、水深に関係なく常に砲身の耐強度限界を装薬いたします」とご了解を頂いた、など爽やかな思い出があり、経営者としても洗練されて傑出した人物であると常に感じていた。
3.3 開発部の新設とバンドン研究所開設
ジャワ油田は昭和17年3月3日占領するや、第16軍により同6月1日第1期復旧作戦の完了と共に、生産は新設された南方燃料廠瓜哇工廠に継承された。
本部長は、同年8月のウォノサリー油田初度検閲において、使役中のBPM社開発部長ボーエンス氏から、担任していた開発技術(exploitation policy) の内容について説明を受けられたが、この部門は日石の組織にないこともあり、痛く興味を惹かれた様子であった。
これが契機となり、本部において開発部(exploitaion department)新設の議が胎動し、主として地質部地質課長兼子勝氏(後の地質調査所長)がこれを受けて努められ、その結果将来部に昇格を前提とし、地質部に開発課を置き、課長は採鉱学出身者とすの付則を以て、本部機構の改正が行われた。
これにより18年8月岩松がジャワから初代課長として赴任し、その後20年3月内地帰還に伴い、後任には課員の中目広安氏(京大粘性流体力学)が、続いて課員大久保大氏(東大岩石学)が引継ぎ終戦となった。
この本部の機構改革は、19年秋帰還となった南スマトラ工廠地質科徴員の進言によって帝石でも取り入れられ、地質・さく井の他に開発部を新設し、現在は技術部と改称している。
また昭和18年秋に東大の青山秀三郎教授を団長とし、東大河角広・京大熊谷直一・東北大浅野清・北大湊正雄氏など、国立大の地質・重力・化石など燃料地質関係の学者から成る文部省調査団の来着があり、手分けして現場視察が行われた。
17年3月ジャワ島の攻略後、バンドン市の蘭印政庁鉱山局と地質調査所の施設が軍政監部の管理下にあったが、予てより南方燃料廠として文化・経済の中心地に中央研究所の必要性が考慮されていたので、文部省調査団の到着を機に企画課員日向技術中佐(陸燃)を主査として、本格的に審議が進められた。
その結果、地質・化石・物探・開発の4部門とする陸軍南方燃料廠バンドン研究所を19年秋、三土知芳氏(東大教授)を所長として開設されたので、これにより陸軍南方燃料廠はBPM社に優るとも劣らぬ機構を確立するに至った。
3.4 全廠徴用者の賃金是正実施
南方燃料廠は軍属を主力とする混成部隊であるため、人事管理面では軍属の労務対策が大きな問題であった。しかし軍属と徴員に対する待遇に関しては、本部長が示された職責に拠るとの、基本方針によって開設以来円満に推移していた。
一方徴員の現地支給賃金に関しては、徴員の出身会社が多様(庶務課長野添中佐の言では47社以上)なため不均衡が目立った。帝石にしても日石・北樺太石油・中野鉱業部・日本鉱業・台湾鉱業など数社が、昭和17年帝石業法に基づき合併成立したものであり、まだ日も浅く社員内部の賃金是正までには及ばなかった。
従って三菱・丸善・満石・朝石その他商事会社などの不均衡の差は30%以上に達している実態につき、労務管理上好ましくないとして経理部で問題提起されていた。
昭和19年春、学歴・経験年数・年齢を指数とする方程式に基づき、全工廠一斉に徴員の賃金是正が実施されたことは、実に画期的なことであった。
この軍の努力に対する徴員の反応は極めて冷淡であったが、これは現地支給賃金が出身会社に登録されず、徴用期間の待遇に過ぎないからであった。
3.5 中スマトラ地区ミナス油田群の新規開発成功
中央から航空潤滑油の原料油緊急増産の要求があって、企画課(千葉中佐)から開発課に対し協議があったのは、昭和18年夏である。
開発課は新設早々のため、軍は新地域の開発指導がその業務を誤解された様子であったが、幸い全工廠の既開発油田の坑内資料を把握していたので、開発課が主管として企画課に協力することになった。
緊急を要するため既開発油田の油質を洗い出した結果、南スマトラ地区ジャンビ油田群のテンピノ油田浅層の油質が適しているが、この層まで水止セメントが上昇していないので、ガンパー採収の困難および、パレンバンまで350kmのパイプライン輸送も問題となった。
依ってテンピノ層の分布を追跡したところ、ジャンビ油田群北方の中スマトラ地域において、NPPM社(Nederlandsche Pacifiqche Petroleum Maatschappij)の試掘調書から、ドリー構造に対する3坑の試掘により、深度400m未満で層序的にテンピノ層と対比される油層を発見して、第4号井の開坑準備中に開戦となったことが判明した。
ドリーは両翼の傾斜約4゚、幅員4km、延長8kmの典型的なドーム構造であり、またドリーに平行するミナス構造はNKPM社(Nederlandsche Koloniaal Petroleum Maatschappij)調査資料に基づいて、中スマトラ工廠配属のさく井中隊が昭和18年深度1,050mまで試掘を実施し、4枚の油層を発見し注目されていた。
このように本油田群は、第一に最適の油質であり、第二に油層深度が浅く可搬式さく井機で3週間程度で成功し所要資材も経済的であること、第三は油田位置が海岸よりジャングル地帯70kmのために運搬道路開さくが有利であり、第四に進入路のドウマイ海岸の水深は13m以上にして、オーシャンタンカーの接岸が可能で、かつマラッカ海峡に面するため内地還送にも有利な条件にあることなどから、企画課もドリー案に同意した。
これによってドリー油田の緊急開発の作命が中スマトラ工廠に発せられ、工廠の加藤少佐を長とし岩渕義一所長・竹林大尉・山田少尉と本部企画課由比万次郎中尉、開発課大久保大中尉の合同調査隊が編成されて、昭和18年夏ドウマイ海岸からドリー油田への進入路の偵察を行った。こうして中スマトラ工廠にドリー建設隊を編成され、南燃として初の開発作戦を展開した。
ドーマイ海岸の阜頭設備と貯油基地の構築は作命により暁部隊(船舶工兵)が区署され、油田に至る70kmの進入路はジャングルと湿地帯のため本廠土木部より松田技師(内務省技官)を派遣したが、悪性マラリヤで殉職し、またジャワ苦力300名の輸送宰領の経理部野村中尉(東大名捕手)も、マラッカ海峡で敵潜の浮上攻撃により戦死した。両氏とも本部で知己の間柄だけに痛く責任を感じた。
中スマトラ大木工廠長(少将、終戦時自決)は、内地からの緊急要請に応えて作業を督励すると共に、試掘に成功したドリー・ミナス油田群の規模から要員の現地養成を企図されて、19年3月既設のジャワと同じく3年修業の石油工業学校を、初代校長加藤少佐、技術将校3名、現地人技師2名を以て開校し、3組180名の教育に当ったが卒業生を送らず終戦で廃校となる。
一般に油田は試掘から生産開始まで3~5年と言われるが、ドリー油田の場合試掘が終ったものの、海岸から千古のジャングル湿地帯に油田設備の新規建設が、踏査後満2年の20年8月16日を完工祝日と予定されたことは、正しく驚異的戦闘速度であった。尚この日が奇しくも終戦の翌日に当っていたことも皮肉であった。
戦後NPPM社は、インドネシア国営石油のプルタミナとの合弁会社カルテックスインドネシアによって、ミナス・ドリー・セバンガ油田群の本格的な開発を行ったが、多くの人的犠牲を払って構築したドリー~ドウマイ間の幹線道路も生かし、当時1軒の華僑雑貨屋と漁夫小屋10軒のドウマイには、精油所が建設されるなど、基本的に日本軍の開発計画を踏襲して大きな発展を遂げている。
その結果ミナス油田の推定可採埋蔵量は約10億t、ドリー油田が1億tと確認され、イ国の石油総生産量の半量に及び、ミナス原油として日石が輸入している。
新設開発課の初仕事として、全島の油田資料を検討し有望な処女地なりと、中スマトラ地域の開発に着手したことは、今にして当を得たものと誇りとするものである。
3.6 陸軍南方燃料廠の成果
太平洋戦争における南方油田獲得作戦は、シンガポールがほぼ予定の時期に占領が行われたこと、および呼応して2月14日落下傘部隊が、パレンバンの2大精油所を奇襲して無傷占領に成功したことは、進駐後の復旧作業に計り知れない効果をもたらし、これにより戦力維持の大本が確立した。
すなわち空から攻撃の報が、パレンバンに近くスラマラ島の宝庫であるリマウ・アバブ・ダウス・ジャンビー油田群にも喧伝されて、徹底破壊の暇もなく退却し、無血占領となったことは、落下傘部隊作戦の波及効果である。
しかし英領ボルネオのセリア油田およびビルマのエナンジョン油田は、守備隊との交戦によって破壊され、またジャワ油田は南方戡定作戦の最後となったので、時間的経過によって被害は甚大であった。
当初の南方総軍石油班(相沢大佐)では、破壊油井の代替井は新掘を予定していたが、主柱をなす南スマトラ地区油田群の損害が軽微であったため、少なくとも半年間の作業短縮と復旧資材の大幅な節約となったことは確かであった。
また占領軍に従って油田に進駐した徴員は、予て指示された日石の鉱業所組織に基づく人員配置と指揮系統により就業し、復旧作業にはそれぞれ修理班を編成、復職した現地人を使役して当った。軍は統制管理に止め指揮せず、現場作業は熟練した徴員によって整々として進捗した。
また南方総軍により兵器廠・貨物廠などの直接協力を得たことによって、南方全域の生産量は、開戦1年が175万バーレル、2年1,600万バーレル、3年3,000万バーレルと、開戦当初の企画院の予想需給計画を上回る生産実績を挙げた。(『帝石五十年史』)
陸軍管理地域の太平洋戦争全期間における年度別生産量表 |
地 域 | 戦前油井数 | 復旧率 | 1942年 | 1943年 | 1944年 | 1945年 | 合 計 |
英領ボルネオ | 772 | 80.3% | 343 | 823 | 1,214 | 273 | 2,653 |
南スマトラ | 1,452 | 88.5% | 2,104 | 4,033 | 2,983 | 725 | 9,845 |
中スマトラ | 15 | 100.0% | ― | 84 | ― | ― | 84 |
北スマトラ | 993 | 72.4% | 60 | 290 | 150 | ― | 500 |
ビルマ | 4,612 | 31.5% | 397 | 159 | 119 | 115 | 790 |
ジャワ | 531 | 90.0% | 310 | 579 | 391 | 244 | 1,524 |
小 計 | 8,375 | 77.1% | 3,214 | 5,968 | 4,857 | 1,357 | 15,396 |
<注> 単位:1,000kl,通産省鉱山局編
上表の生産量は、占領地の作戦並びに現地民需および内地還送状況によって大きく増減した。また陸軍は蘭領南ボルネオ(海軍)を除く、南方油田全域を管理することによって、全期を通じ現地軍並びに民需と内地還送のピーク時でも、生産能力の60~75%の稼働で対処して常に余力を保った。これは期せずして合理的許容採収量の範囲に止め、油層の荒廃を守ったことを意味する。この事実は記録さるべきと考える。
また終戦時は操業状態で引渡し、油井破壊を行わなかったが、その後平成3年2月勃発した中東湾岸戦争におけるイラクの油田焼却戦術は、天人共に許さぬ暴挙の極みである。
陸軍南方燃料廠石油生産品の内地還送と現地消費量 |
| 年度 | 原 油 | 航 揮 | 自 揮 | 灯重油 | 潤滑油 | 合 計 |
内地還送 | 17年 | 1,082 | 96 | 141 | 234 | 471 | 2,025 |
18年 | 1,907 | 294 | 178 | 361 | 834 | 3,574 |
19年 | 800 | 350 | 250 | 500 | 1,100 | 3,000 |
20年 | ― | ― | ― | ― | ― | ― |
現地消費 | 17年 | ― | 90 | 180 | 900 | 1,270 | 2,440 |
18年 | ― | 200 | 280 | 1,390 | 2,038 | 3,908 |
19年 | ― | 250 | 280 | 1,360 | 2,040 | 3,870 |
20年 | ― | 75 | 90 | 150 | 400 | 715 |
計 | | 3,789 | 1,355 | 1,399 | 4,895 | 8,153 | 19,532 |
<注> 単位:1,000kl,帝石史編纂資料
昭和19年頃から海上輸送が著しく困難になるに及び、油槽船の喪失は建造量を超え、20年に入るや内地との航路は遮断され、内地還送は途絶した。
これにより船腹を節約するため原油の還送は中止し、内地が必要とする航揮・自揮・潤滑油の製品を送ることになり、原油をトッピングした残渣油は精油所近接油田の油井に還元圧入して、油層圧維持法を実施した。
しかし船団は来たらず製品は滞貨するばかりであった。20年春窮余の末、小沢艦隊(戦艦伊勢・日向、巡洋艦大淀)による石油製品の強行輸送と、先に決定した内地油田緊急開発要員991名の護送を実施した。こうして昭南→内地を5日間の戦投速度で任務を果したのが、南方石油内地還送の最後である。
内地油田の緊急開発とは、20年春南燃から陸燃に転属した元東部第85部隊永幡節誕中佐の首唱によるもので、南方航路が遮断された以上、内地油田の増産以外に策なしとするものであった。当時内地では松根油の製造に国民が動員された時代であった。
選抜された判任扱以下の徴員は、小沢艦隊とその直前単独出航した油槽船に便乗し、奏任扱の幹部技術者の一部は特派された九七式Ⅱ型重爆撃機3機(途中上海で被曝し昭南に到着したのは半数に過ぎなかった)に分乗して、20年3月24日に出発した。
筆者も爆撃機に搭乗したが、広東からは強風で日没まで上海に着けないため、福州上空で急遽変更して台湾嘉義に着陸した。このため図らずも昭和20年4月1日、前任地台湾鉱業所出礦坑鉱場に4年振りで復帰することができた。誠に望外の幸運であった。
3.7 地質部開発課で検討した諸問題
開発課は、BPM社鉱山部門の組織に準じて、昭和18年夏本廠地質部内に新設された最新の油層工学に基づく合理的採油技術の管理部門で、日石にはない職制である。
業務は南方全域の資源評価と合理的管理の指導であり、探鉱期の中スマトラ地域を除き、全般的には二次回収施工の時期に至っていると判断したので、水攻法による増産の検討に着手した。
先ず各工廠地質科に対し、油層評価資料となる項目を示し、油層別のデータの提出を求めたが、未だBPM社でも系統的に整理していなかったので、難解な問題であった。そのため20年春までに報告を得たのは、ジャワ・北中スマトラ・英領ボルネオのみで、他廠は調査中のまま終戦となった。 昭和19年秋に至り、企画課から航空潤滑油に適す原料油産出油田について意見を求められた折には、幸いに中スマトラにおけるNPPM社試掘資料の発見により、ドリー・ミナス・セバンガ油田群が最適と決定することができた。これにより日本軍の管理で本格的開発を実施したことが、今日同地カルテックス社盛況の基礎となったことは、既述の通りである。
因みにジャワ在勤中にこの大戦が勝利した場合、アジア共栄圏の工業が大発展すると想定して、これに対処するために必要な石油資源埋蔵地域の予想について、使役のBPM社地質部長トロスター・開発部長ボーエンス・地質技師ファンデマーロ・開発技師フレンベンベルク氏らと、自由討論したことがあった。
その結論として、処女地として注目していたニューギニアは、過大評価すべきでないとの見解が示されたことは意外であった。当時海底油田は文献に散見する程度であったが、彼等はジャワ海と南支那海が探鉱の対象となろうと語っていた。
南支那海については、鉱山部のさく井課長新島良三氏(後帝石常務)が、英領ボルネオ、セリア油田の延長を沖合において試掘するため、旧式巡洋艦の貸与を提言したことがあった。
尚潤滑油問題から急浮上した中スマトラ地域については、BPM社の技師連はNPPM社のドリー試掘資料を知る由もなく、彼等の話題とはならなかった。
このような検討から南方油田の可採埋蔵量と、その開発速度や減退率を勘案すると、将来アジア共栄圏のエネルギー政策(当時湾岸油田は試掘中)に暗影を投ずることが明らかであった。
そのためには、石油資源に乏しい枢軸側が勝利した場合のエネルギー政策としては石炭の液化以外には途がなく、海軍のドイツ方式による石炭液化の事業化について、陸軍も今から関与すべきであると、機を見て本部長に進言したいと考えていた。
その後入手した資料から、ソ連では石炭を地下でガス化して山元発電することを計画しているとの報告を発見した。石炭液化には褐炭が適すが、地下ガス化は層厚の薄い貧鉱に適すという。
ソ連式地下ガス化とは、炭層中のある区画内にギャラリーと称する坑道を方形に掘開して炭層に点火燃焼せしめ、発生した石炭ガスを地上に導き、低カロリーガスタービンの燃料として山元発電を行うものである。
ギャラリー方式の欠点は、地下炭層のガス化によって生ずる空洞により、地上に地盤沈下が発生することである。これを防ぐため燃焼範囲を制限して炭層の処々に柱炭を残す必要があり、経済性と鉱害に問題があった。
開発課はこのギャラリー方式の欠点に注目し、油井技術の応用によりギャラリーを廃止することを考えた。すなわち炭層までボーリングして点火し、ガス抜き井を燃焼前線に設ける方式を立案した。
このボーリング法はギャラリー方式に比し経済的であり、炭層深度と層厚には制約を受けないため、日本炭鉱の如く層厚1m以下の貧鉱もガス化が可能である。また点火井からの送気量を加減して燃焼温度を調節することにより、柱炭に代る残留コークスで地盤沈下を防止できる利点がある。
しかし有毒な石炭ガスが断層を通じて地上に洩れると重大であって、米国ではこのため1ヶ村が移転したとの報文もある。このようなガス洩れは注水して水封を行うことによって防止できるので決定的な欠点ではないが、化石エネルギー資源である以上、石油と同様窒素酸化物による大気汚染は避けられない。
この他ボーリング法による石炭の地下ガス化法において、ボーリング井底から石炭層に点火する方法と可能性のみが宿題として残され終戦となった。
台湾から21年暮故国に引揚げたが、終戦後のエネルギー対策は、GHQの"Get more coal"のお声掛かりで特別融資の途が拓かれ、内地では石炭の増産に狂奔していた。
やがて採算性の低い炭鉱は廃山に陥ったが、その起死回生にこそ地下ガス化が有効と考えているうちに、湾岸地方バーレーン島の石油試掘の成功により、世界の石油事情は一変して今日に至る。
その後昭和31年帝石技術研究所で、米国が企業化に成功した超重質油層に対する火攻法の模型実験を見学して、油田水と共存する油層に点火が可能であることに興味を惹かれた。
幸い新潟県の新津油田は代表的な重質油であることから、そのフィールドテストを買って出て、帝石柏崎鉱業所として東京通産局に申請し、年1,500万円3年継続の企業化実験助成金の交付を受け、昭和34年まで新津油田小口地区深度500mの第2層に対して実施した。
問題の点火法にはガス炎と電気着火の準備をしたが、約10倍量の油田水を伴うボーメ28度の悪条件の油層をガス点火法で成功したことにより、炭層に対しても大いなる自信を得た。
しかし残念ながら坑口を開放せずバルブを閉じたまま点火したので、坑口バルブが爆圧で破裂し、実験主任が殉職したことは大きな犠牲であった。
重質原油の流動性を高めるに必要な地下温度を900゚C、この燃焼に消費される層内原油の5%以内として計画されたが、その調整は、隣接採油井の排気を分析し、CO237%を維持するよう点火井の送気量を加減することによって、自由に行うことができる。
実験の成果は技術的には成功したが、経済的には層内残油の絶対量に比例するため、新津油田は枯渇して経済性が低いため、企業化は見送られることになった。
しかしその後近年に至り石油公団は、北米・カナダに多く埋蔵されているオイルサンドの原油回収実験のため、再度新津油田において改良された湿式火攻法の実験が行われた。
また米国では1980年代に至り、油井の傾斜掘り法による石炭の地下ガス化方式が発表されたが、開発課案に遅れること40年である。
戦後のわが国では、地下ガス化はおろか海軍が育成して緒についた石炭の液化まで惜しみなく放擲して炭鉱を整理したことは、非常に残念なことであった。
次に戦況が悪化した19年春頃、本部庁舎のあるフォートカニングの丘上から、6,000t級油槽船20隻くらいの船団が昭南商港を出航するのを望見したことがある。輸送部の係員に無事到着する率はと質問すると、事もなげに20%くらいと返答され慄然としたものである。
またその頃貨物廠から、紡錘型潜水タンクの試作品公開に招かれ、このタンクを数個鉄鎖で漁船に曳航させるという、児戯に等しい発案に腹立たしく感じたことがある。
こんなことで聖戦の遂行はできるものかと、開発課として海路が途絶したのならば、大陸の沿岸伝いに昭南貯油基地から、上海港までの間約7,000kmの送油線を敷設する大東亜送油線計画を真剣に検討したことがあった。
米国では、4,000~5,000kmの送ガスパイプラインを子午線沿いに敷設した壮大な工事例もあり、技術的には問題はなかった。
従って重要な点は、鉄管類・ブースターポンプ設備などの資材と作業員の調達、および完成後の保守管理と沿線警備が問題であった。
資材については内地の船舶建造の鉄材をパイプ製造に切替えること、また南方燃料廠として全域油井の外側鉄管を抜揚して利用すると共に、鉄管工事技術者の供出を行うことによって対処する。完成後の保守警備に関しては、沿線のタイ・仏領印度支那・広東・福建・淅江省当局に対して、南方総軍より原油の現物給与を条件として交渉することで、実現は可能であろうとするものであった。今日シベリアの天然ガスを沿海州の港まで、10,000kmのパイプライン敷設が語られる折から、当時としても荒唐無稽ではなかった。
3.8 総括
南方油田獲得戦はその重要性から、パレンバンの精油所と飛行場には落下傘部隊を送り、またジャワ油田では戦車および工兵隊による果敢な作戦を展開して、敵破壊作業を制止し、大きな成果を収めた。
また石油技術者は開戦と同時に徴用され、千葉85部隊・台北1連隊などで3週間の戦闘訓練を受けた後従軍した。彼等が敵前上陸部隊と共に油田に突入し、占領後直ちに復旧作業を開始したことは、被害の拡大防止に対し極めて効果的であった。
その後の運営に当っては、召集将兵と徴用専門技術者の混成部隊である燃料廠は、本部長山田清一中将の「軍は管理するが指揮せず」の方針により、極めて円満に推移して能率が向上し、その結果は業績に反映した。
やがて終戦となるや、敵の進攻を受けたビルマと英領ボルネオが敵機による被曝と自爆して退避した以外、他の工廠は操業状態で連合軍に引継がれた。
軍人は復員帰郷し、徴員は徴用解除されてそれぞれ出身会社に復帰したので、終戦時帝石の従業員数は在籍者11,950名、応召休職者4,638名であった。(『帝石五十年史』)
この大世帯で北樺太と台湾を失った会社経営については、先ず以て新労働3法に基づき満55歳定年制が実施され、24年度6,632名まで人員整理が行われた。
しかし生産量は、戦時の要請に応じ合理的採油とはほど遠い掠奪採油を行ったため油層が荒廃して減産した。更に25年GHQ政令によって純民営となるや、人員整理の止むなきに至って激しい労使争議の末、昭和28年の在籍者4,200名となった。このような困難は、リスクの大きい上流部門の探鉱だけの帝石としては打開の途なく、今日尚茨の道は続いている。
因みに18年秋、本部企画課員神原泰氏(帝石、奏待)の業務連絡のための内地出張を機に、現地帝石幹部社員の意向を本社に伝達するための集りがあった。
この席で緊急問題の第一は、内地に南方補充要員の養成学校を設立されたいこと、第二は陸海軍南方燃料廠の事業を帝石が継承する会社組織において、世界石油産業の常道に従い上下流部門、すなわち探鉱・精油・販売の一貫経営を定款とすることが必須との要件であること、この2点を社長に具申することに一決したことがあった。
その場合帝石の資本金が話題となり、神原氏の10億円説に驚いたが、国策会社の満鉄の資本金が6億円との説明に妥当であろうと、納得したものである。
これに対し本社は第一の提言を採択し、翌19年新学期には石油鉱山学校を西山・東山・八橋鉱場に、また旧専門学校令に基づく2年制の石油学園を柏崎市に開校したが、第二の経営機構については戦争中であるため、単に聞き置くに止まった結果、受け皿の準備がないことから、帝石の終戦処理に大きな禍根を残した。
このため敗戦となり軍が解体されるや、戦争の落とし子帝石は官民両サイドから顧みられずに終ってしまった。これは当時商工省並びに石油業界に指導者を欠いていたこともさりながら、由来日本には確固たるエネルギー政策のなかったことに起因している。
むしろ4年間の南方油田管理に自信を得た、陸軍南方燃料廠の高級将校中には、石油産業の本質を把握した人が多かったことを想起せざるを得ない。
今にして本省整備局長時代から南方油田問題に関係された、初代本部長山田清一中将(後第5師団長、終戦時自決)と、本省整備局課長後本部初代企画課長上田聡治中佐(後陸燃赴任の途次航空事故で殉職)が終戦時ご在世ならば、大声一番「元に還れ」の号令を発して、帝石を元の鞘日石に納めることを政府に進言されたであろうと、固く信ずるものである。
すなわち終戦を機に帝石を解体整理して、日石鉱山部を再建すると共に、GHQの了解を得て米資の導入に成功しておれば、時恰もアングロイラニアン社がバーレーン島の試掘に成功した時期であり、やがてペルシャ湾に展開された石油開発オリンピックに参加できたものをと、惜しみても余りあるものがある。
3.9 帝石徴用員の犠牲と阿波丸事件
陸海軍によって南方油田が占領されるや、従軍した徴用員によって復旧生産が行われ、戦争遂行に必要な石油の自給態勢を確立したが、その間における犠牲者も大きく、帝石在籍者1,650名(別に2,185名説)に達し、その損害は31.8%の高率である。
開戦時の一次徴用者(敵前上陸組)は、各地とも奇跡的に損害はなかったが、その後も北スマトラ鉱業所長山田嘉栄治氏、ビルマ鉱業所長大庭幸三郎氏などが惜しくも殉職された以外は、熱帯の風土病に冒される者は意外に少なかった。
しかし19年以降内地から増員の幼年工が、斗月丸・君川丸・日営丸・扶桑丸・玉津丸・珠磨丸などの輸送船で派遣されたが、雷撃により憧れの地を踏まず空しく南海に散った。
また戦況が悪化した昭和20年4月20日、英印軍がビルマのエナンジョン油田に突入したため、徴員はマンダレーに撤退行軍中、飢えと疲労で戦病死や集団自決により、生還者は僅か5%と言われる。
これらの犠牲中には地質科開発係亀ヶ森隆君(北大)がいる。生還者の証言によると、彼は軍靴が破れ素足で行軍中、落後者の集団を見つけて足を止めたので、同僚が行進を勧めたが、休憩させてくれと居残った。やがて300mほど後方で手榴弾の炸裂音が聞えたので、集団自決は確かとのことであった。
また20年6月10日、英領ボルネオのセリア油田では連合軍上陸開始によりキナバル山麓の奥地へ退避した。行軍中ジャングル中において、現地人ゲリラの襲撃やスコールで増水した河川の渡渉中溺れるなどのため、出発時600名が目的地に到着して収容された者は、280名に過ぎなかったという。
この犠牲者の中には北スマトラ工廠地質科長村山方治氏と開発係の大塚剛次君(京大)がいる。彼等はリンバン河上流を渡渉中携行の技術資料と食糧のため足をとられ、同僚の目前で行方不明となったと言われる。
大塚君とビルマにおいて戦死した亀ヶ森君とは、共に昭和19年度帝石新入社員として南方派遣されるや、新設開発課要員として本部にて1ヶ月間開発技術に関する講習を終えて、それぞれ赴任させた将来が期待される有為の社員であった。誠に惜しまれるものがある。
この他終戦時海軍地区の蘭領南ボルネオ、タラカン島においても、20年5月には激しい空爆と艦砲射撃の下に連合軍が上陸したため、徴員は油田を放棄してジャングル地帯を彷徊したが、終戦を知らず元北樺太石油の徴員に大きな犠牲者が生ずるなど、建設部隊の徴用者が国に殉じた事実は記憶さるべきである。
更に20年3月28日には、内地油田緊急開発要員として帝石在籍徴用者500名は内地帰還を命ぜられ、シンガポール出港の条約による交換船阿波丸に便乗した。
本船は南方地域の連合軍捕虜に対する救恤品輸送のため、国際安導券により航海を保証された緑十字の条約船であり、往路はサイゴン・シンガポール・ジャカルタ・スラバヤ港で陸揚げし、帰路はシンガポールから門司に直航の予定であった。
阿波丸は任務を終りシンガポール出港後一路北上中、20年4月1日午後11時台湾海峡において、米国潜水艦クイーンフィッシュにより無警告撃沈された。船のコック1名が救助されたに止まり、乗客・船員2,046名共に海底に消え、世界戦史上類のない惨事となった。
本船には大東亜省竹内次官・保科秘書官・東光課長、外務省の山田調査局長など政府高官をはじめ、占領地の司政官および多くの家族の他、石油関係においても瓜哇工廠嘱託千谷好之助氏(元地質調査所長、勅任技師)・同鉱業科長北野収好氏(満石阜新鉱業所長、奏任扱)・本廠開発課長中目広安氏(2代目課長)など、掛替えのない人材が乗船していた。
これらの高官は飛行機による帰国の機会があったが、安全性から敢えて阿波丸を選ばれた人が多かった。例えば瓜哇工廠の千谷氏は、緊急開発要員輸送のため内地から特派された爆撃機の座席が確保されていたにもかかわらず、高血圧症を理由に謝絶して、北野氏が付添って阿波丸に乗船され、惜しくも遭難されたなどの事情があった。
また中目君は、京大で粘性流体力学専攻(学位請求論文提出中)の俊秀にして、研究室助手から19年春帝石入社と共に南方派遣され、新設の開発課の配属となった人物である。
彼は19年春着任早々「石油人となった以上、万国石油会議に論文を発表したいので、先人未踏のテーマを教えて下さい」と自信に満ちた要請があった。そこで原油自噴量の計算では、気・液2相からなる圧縮性多相流体の垂直流であるため、ディメンジョン的に圧力・容積・温度が刻々変化するので、単一の方程式では表現できないことを説明すると、「解いてみましょう」と大いに興味を示した。
やがてその成果は昭和20年3月本廠の第3回技術会議において発表されたが、次々と黒板に示される高等数式の羅列には、出席各工廠の技師達や技術将校連をして驚かしめるものがあり、彼自身も亦論文発表の機会を得て満足していた。
その後悪化する戦況下で、この論文を内地に届けたいと苦慮していた様子であったが、3代目開発課長を大久保中尉に譲り、折よく寄港の阿波丸に乗船して帰国することを許されたて喜んでいた矢先、台湾海峡に散ったことは、業界として大きな損失であった。
この阿波丸事件は、濃霧のため駆逐艦と誤認したと発表されたが、故意か偶然か未解決のまま歴史の中に埋って今日に至った。しかし当時既に台湾海峡は米軍制空権下にあり、駆逐艦と雖も単独航行が困難にして事実上航路が断絶していた戦況下であったから、駆逐艦が航行する筈もなく、この発表には必然性がない。
予め阿波丸航程の通報を受けた艦長が、ジグザグでなく直航進中の船影に対して追跡確認することなく、レーダー観測で4発の雷撃を行った処置は適切とは認め難い。
然るに日本紙の中には、阿波丸には戦時禁制品と南方の金銀財宝の積荷があり、当然の制裁とする浅薄な論調もあったが、中国のサルベージ船が1979年から1981年にわたって阿波丸の船体引揚げに成功した結果、噂の金塊はなく錫3,357tと遺骨388体の発見に止まった。錫と生ゴムについては、マライの特産品であり、不況下の住民に対する軍政上の配慮から滞貨処分を迫られていた事情があったとの推理も成り立つ。
仮に米国がこれを違法として阿波丸の制裁に及んだとしても、停船・臨検の上必要なら船体を拿捕すればよく、深夜無警告で撃沈したことは無法と断ぜざるを得ない。
敢えて暴挙に及ぶには何等か思惑がある筈である。因みに米国は暗号解読により、南方軍政に参与し現地人に温情を与えて実績を挙げた司政官や、占領地の石油・ボーキサイトなどの地下資源の開発に活躍した技術陣が乗船したことを十分知悉しており、これら日本知能集団の抹消を狙ったのだとする故意説も、近代戦では強ち否定はできないものがある。
阿波丸は予定通り往路シンガポールに寄港したのは20年3月24日であったが、本船を訪れた燃料廠連絡者の話では、素晴らしい新造船で遊歩甲板には、サイゴンから便乗の外交官家族(婦女子50名)の姿が見えていて、平和の船と感じたと洩していた。
筆者は予てより阿波丸の来港と、帰路は台湾に寄港しないスケジュールも承知していたが、石油技術者を迎えに来るという爆撃機の来着前でもあり、親しい庶務課長野添中佐に、阿波丸便乗を申入れたところ、変更困難と謝絶された。
翌日爆撃機が到着したので、阿波丸に決定して待機中の同僚と決別し、在比米軍に奪われた制空圏の間隙をぬって昭南・サイゴン・広東を経て台湾嘉義に着陸した。独り戦時厳戒下の台北に至り、陸燃出張所で徴用解除の上前任地帝石出礦坑鉱場に復帰することができた。
阿波丸乗船者の中には海軍徴用者にも同僚が多く、殊にジャワの敵前上陸で生死を共にした40名の台湾人従業員の中、任務上残留した5名を除き、全員が乗船して遭難したことは惜しみても余りあるものがある。
尚阿波丸の船体は、沈没して34年後中国のサルベージによって引揚げられ、その遺品の一部は日本政府に引渡された。幸運にも部下であった備後菊治君のチーク材の荷札が発見され、昭和55年新潟県庁において遺族への伝達式があり、縁あって立合うことができた。
そもそも阿波丸の派遣は、南方地域の連合軍俘虜に対する救援物資の輸送について、米国からの申入れによるものであった。
これに対し日本政府は、
①往復とも攻撃・停船・臨検・その他いかなる妨害も加えないこと
②船腹の一部を利用して、日本はいかなる積載物や人を乗せてもよいこと
の条件を1944年10月6日スイスを通じて米国に要求し、米国の承諾を得て安導券の交付を受けていたのである。この事実があまり知られていないところから、新聞社や遺族の中にも誤解を招いた節があった。(朝日新聞、阿波丸の悲劇)
従って、往航では占領地軍政部へ向けた軍票・金塊などの資金と武器若干が積載されたことは確かであるが、復航には錫と生ゴム程度とし、日本政府は本土決戦のためにも人材の輸送を優先としていた。
すなわち南方総軍から南方進出の企業及び団体に対し、次の如き通牒を出している。
①昭南島守備作戦のための足手まといとなる老人・婦人・子供を内地に送還すること
②本土決戦に役立つ技術者等を内地送還すること
③内地送還者は阿波丸に乗船させること
であり、阿波丸は絶対安全な条約船と信じられたいた。
南方総軍の通達により人選に当ったが、戦局が悪いため、各企業とも南方在勤の永い順に選抜された。それが奇しくも阿波丸の遭難で悲喜ところを変えたのである。
阿波丸事件の処理について、米国は独立した事件として取扱わず講和条約の一環として、終戦後の米国による援助と帳消しにするという考え方に立って、請求権を放棄するよう日本政府に迫った。日本政府も議会決議を以て請求権放棄を承認したが、遺族としては今以て釈然としないものがあろう。
平成3年陽春4月 擱筆
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更新日:2005年7月7日