戦 時 南 方 の 石 油

岩 松 一 雄 著


第1章 台湾の石油事情

1.1 台湾の石油資源に海軍が着目

 海軍は領台直後、清朝政府が新竹州公館庄出礦坑地内の石油露頭に対する、米人技師による試掘資料により、南方の新版図における石油資源に着目して八代大佐を派遣し、出礦坑のほか東方30kmの大湖郡大湖庄セトバンの蕃地において、絶えず高さ6~8mの火炎をあげる、天然ガス露頭まで視察された記録が残 っている。
 この調査で海軍は、台湾油田は有望なところから台湾全島を予備油田とし、企業の試掘出願は台湾総督に提出して、海軍省の意向により許可される仕組みとした。

1.2 台湾総督府の殖産奨励

 台湾総督府もまた、他の鉱物資源に先んじて台湾油田地質図の作成に着手し、主として新竹州と台南州に多くの背斜構造を発見している。
 やがて日露戦争の大勝により、日本経済も漸く活況を呈するや、総督府は台湾油田が中小企業による乱開発を防ぐため、明治41年南北石油会社を興さしめ、出礦坑油田の試掘に着手し、その後日本石油に合併して出油に成功、今日まで台湾唯一の産油鉱山として開発された。
 その後総督府は石油開発を奨励したので、日本石油(日石)においても南部地方の千秋寮、六重渓などの試掘を行ったが成功しなかった。やがて大正元年に至り、新竹州苗栗郡造橋庄錦水地内の両翼傾斜4゚~8゚で延長8kmの雄大な背斜構造から、埋蔵量は東洋一と称せられた天然ガス層が発見さ れ、その頃基隆州の金瓜石鉱山の産金量と共に、台湾は宝の島と呼ばれる時代が到来した。

1.3 海軍委託井制度の実施

 海軍は大正の初期高雄州旗山郡甲仙および台南州の内寮に試掘を日石に委託したが出油しなかったので、揚梅排と小梅などの候補地の試掘は中止された。
 その後八八艦隊編成の需要増から、昭和7年再度甲仙ロータリー第1号井を選定して日石に委託し、甲仙の深部構造に挑戦したが不成功に終る。
 また昭和4年錦水の成功に鑑み、10年には新竹州竹東郡宝山庄において、日石に委託して深度2,000mを掘進中開戦のため中止し、また昭和8年台湾鉱業が新竹州竹東郡竹東街でガス田を開発するや、海軍は昭和12年ガスからメタノール製造の委託研究を行う。
 海軍の方針は経営ではなく、資源評価が目的のため、候補地は常に企業が敬遠する僻地であり、新竹州大湖郡大湖庄の蕃社パカリにおいて、昭和12年1,500mの試掘を日石に委託し大戦中も継続し3坑井を完掘したが、少量の出油に終った。
 海軍は石油試掘に昭和9年以降70万円の予算で1坑を実施したが、総督府もまたこれに対応して試掘補助金制度を創設し、昭和9年錦水3,000m井に200万円助成した。
 また11年以降は積極的に、海軍油田事務所を総督府内に開設して機関中佐級を常駐せしめ、委託業務の監督と総督府鉱務課との連絡を強化し、大戦末期には台湾唯一の産油地帝国石油(帝石)出礦坑鉱場は、海軍第6燃料廠の管下に置かれ田村機関中佐が駐在した。

1.4 台湾における石油さく井技術水準の躍進

 台湾油田はガスが豊富で、錦水C1井の噴出量は測定不能、R8井は1億万ft3、R12井は3億万ft3、R20井は2億万ft3の日産を記録して東洋一と称せられた。
 その後錦水は昭和10年3,400mの世界的な超深井を完成し、また台南州六重渓の異常高圧ガス田の試掘には、世界初の加圧掘方式を試みて高圧層の突破に成功するなど、日石による台湾油田の開発においては、常に日本のさく井技術をリードしていた。

1.5 国民政府の台湾石油事業接収

 終戦により台湾が還付されるや、重慶政府から台湾石油事業接管委員会(金開英、コロンビヤ大学学位取得、有機化学)を派遣し、帝石の錦水・出礦坑・新営・竹東の生産鉱場と、海軍委託井の宝山・八卦力支所の評価資産27,036万円および日石苗栗精油所を接収した。
 これらの鉱山資産の他、新竹および高雄の海軍燃料廠の精油並びに貯油施設を接収すると共に、新竹の総督府立天然ガス研究所など石油産業の上下流部門のみならず研究施設まで一括接収したことは賢明であった。尚、錦水カーボンプラント・苗栗精油所は廃止された。
 また台湾鉱業所を台湾油礦探勘処と改称したことは、未だ台湾は探鉱の段階と定義したことを意味し、これは金開英の見識であった。また彼から錦州省阜新炭坑内の滲出油と、撫順炭坑の油母頁岩の情報を求められたことがあり、当時は奇異に感じたが、後年陸成層の大慶油田発見のニュースによって彼の達見に驚く。

1.6 国民政府経済部の帝石資産の引継ぎと中国石油公司設立

 経済部は接管委員会を改組して、直轄の中国石油公司(CPC)を台北市に置き、苗栗の旧帝石鉱業所の探勘処には処長李同照、副処長張玉鐇、出礦坑鉱場長康天経が着任し、別に重慶から重力調査隊が出張して全島の調査を実施した。中国側には技術者絶対数の不足と、台湾人との摩擦回避のためにも日本人多数の留用を指示したが、台湾人の技術水準を保証して留用を極力拒絶し、接収責任者として所長藤島扶男、出礦坑鉱場長岩松などの範囲に止めた。これは結果として公司側にとって台湾人の懐柔に役立った。台湾人も自信を以て独力で錦水超深井の掘り下げを敢行し、3,400mのガス増産に成功した。これは日石時代錦水ガス田で培われた技術が先進国の水準に達していたことを意味し、かつ錦水鉱場台湾人鉱夫教習所で台湾人技術者を養成してきたことの賜物であった。

1.7 中国石油公司の重力探査

 公司独自の作業としては、接収と共に重慶から招致した重力調査隊が、台北から高雄に至る西部平野を縦断する測線の調査を実施した。
 台湾油田図は大正初期に完成し、油田別の精査図と既存井による地下断面図も一応明らかにされていたが、深部構造を知る重力測定については部分的であり、嘗ては全島を網羅した測図がないため、基本となる台湾西海岸の堆積盆地基盤の究明から出発したことは、適切な処置であると感じた。
 この重力隊は調査帰国後八路軍が全土を掌握したので、解析結果について消息未詳となり、日石時代からの台湾深部探究構想の展開は、一時的に停頓した様子である。

1.8 戦後の新発見油田ガス田

 増産対策としては日石時代の資料による候補地に対し、接収した器材と人員を以て順次新竹州および台南州下の、主として帝石試掘候補地の探鉱を実施した。
 公司は政府機関であって、採油製油の一貫作業であるため、台湾工業力の発展に伴う製品販売増益によって、潤沢な探鉱投資が行われたが、終戦後1990年度まで新しく発見した試掘地は、錦水ガス田3,400m井の改修および南方延長老田寮地区の開発、日石時代の通常試掘継続による鉄砧山ガス田の発見、海軍試掘継続による宝山ガス田発見のほか、新竹沖海洋油田など、殊に1975年出礦坑油田の深度4,500mの深層ガス開発に成功し、現在台湾における産出ガスの主力を占めるに至っている。

1.9 出礦坑油田深層ガス発見

 これは日石時代の台湾深部構造究明の伝統を受けたもので、この出礦坑深層ガスの開発成功は錦水油田の3,000m井の資料と、中国石油が全島的に実施した重力測定値の構造地質学的解析と、有機物の続成作用説の展開によるもので賞賛に値する。

1.10 日石時代完成した錦水の世界的深井

 日石が社運をかけた台湾油田の深層探鉱は、大正14年以来商工省の、内地試掘5ヶ年計画実施の結果が不振のため、活路を台湾に求めたもので、昭和10年錦水の深層ガス開発に成功した3,400m井は、世界第9位の深井であり技術の高きを示したが、総督府も同井に200万円の助成を行っている。

1.11 終戦引揚げ帰国

 終戦時接収業務のため台湾石油事業接管委員会から出礦坑鉱場責任者として留用されて、21年12月解除され駆逐艦夕月にて引揚げたが、1年前に2児を伴い一般引揚者と共に帰国した妻が1ヶ月前に急逝していた事情から、帝石復職は翌22年8月となった。

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更新日:2005年7月7日