岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

戦争と私 5


まんさく

 春,雪国の者にとっては特別の響きをもつ言葉だ。明るい陽光に恵まれた暖かな春,ものみな生気を取り戻し躍動する春,それは長いうっとうしい冬からの解放を意味する。植物もしかり,梅・桜・桃,一斉にほころぶ。まず梅が咲いて,それから…などと順を追うのは関東以南の話,半年雪に埋もれる北国では,短い夏の間に花を咲かせ実を結ばなければならない。どの木々も草花も先を争って咲き誇るのである。
 昭和22年早春,小学2年の私は父と山へ山菜採りに出かけた。蕗の薹がお目当てである。蕗の薹は味噌和えにしたりすると,ちょっと苦みがあってうまい。でも少々遅すぎたのか,蕗の薹は大きくなりすぎていた。道路を離れ谷間に下りてみる。まだ山の北斜面や谷底には残雪があった。残雪の近傍にまだ半分地中に埋もれた蕗の薹が顔を出している。「こういうやつが柔らかくてうまい。雪が融けて後退していくにつれ,蕗の薹が頭をもたげてくるから,蕗の薹の大きさをみると,雪の後退した道筋をたどれるよ。」などと父が教えてくれた。
 谷底に積もった雪の下から冷たい雪融け水がちょろちょろ流れている。雪の橋である。父の制止も聞かずに渡る。案の定,橋に穴があいてズボッと首まで埋まる。父に引っ張り上げてもらう。目の前に万作があざやかに咲いていた。色彩に乏しい早春の山ではひときわ目立つ。目にしみるような黄色だった。
 他に先駆けて咲く花には辛夷などいろいろある。大輪だし背も高く万作などよりずっと見事だ。しかし,なぜか私にはこの万作の思い出が鮮明に残っている。それにはわけがある。前年,母と台湾から引き揚げてきた。無一物からのスタート。戦後の食糧難時代,女手ひとつで子らを養わなければならない。内職の過労や姑・小姑とのいさかいなど,心身共に疲れきっていたのであろう。晩秋のある夜,帰宅途中に気分が悪くなり,そのまま死んでしまった。親戚の家に同居していたとはいえ,孤児同然,暖かな家庭に飢えていた。その冬,父が帰国した。この日の山菜採りは,ざわついた親戚を離れ,初めての水入らずの時間,雪の中から引き上げてくれた大きな父の手の温もりは家庭そのものだったのである。それは冬の終わりであり,戦争の終わりであった。
 今朝,湾岸戦争で民間人多数死亡とのテレビニュース,その直後「各地の便り」で万作の映像が流れた。イラクでも私のような子らが多数生まれたことだろう。戦争は何としてもこの世から無くさなくてはと思う。

(1991.2.15 稿)


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更新日:1997年8月19日