岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

戦争と私 4


白いケープ

 夜9時,いつものように何気なくテレビのスイッチを入れた。一人の中国残留孤児が白いケープを広げて必死に訴えかけている。突然,40年前のことが鮮明に思い出された。
 台湾からの引揚げに際して持ち帰ることが許されたのは,行李1個の荷物だけ。その中に白いケープがあった。私の赤ん坊の頃のものだという。引揚げ先は雪国新潟,必ず毛糸が必要になる。冬に備えての配慮らしい。その年の秋,母は私に手伝わせてケープをほどき,ラクダ色に染め替えて,せっせと私のセーターを編んでくれた。完成すると間もなく,引揚げ時の苦労がもとで,母は急死した。小学校2年の初冬のことである。南国育ちにとって初めて経験する厳冬,寒さがこたえた。父はまだ帰国せず,母はもういない。さみしさのほうがもっと身に深々としみた。そんなとき,形見のセーターがどんなに暖かだったことか。
 伸び盛りの子供のこと,セーターはすぐ着られなくなり,何度か編み直して,とうとう腹巻となった。腹巻をしないで寝ると,てきめんに風邪をひいた。まるで風邪のお守である。布団から転がり出ると,何時もやさしく布団をかけてくれた母が,死後も見守ってくれているようであった。
 以来,修学旅行に行く時も,大学に入って東京へ出た時も,ずっと持ち歩いた。フィールド(調査旅行)にも持参した。結局,結婚するまで肌身離さなかった。母の愛が妻の愛に場所をゆずり,腹巻はタンスの奥深くしまい込まれた。不思議なことに腹巻がなくても風邪をひかなくなった。

(1986.9.17 稿)


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更新日:1997年8月19日