岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

戦争と私 3


てんぷら

 今日の夕食はてんぷらである。菊の葉がパリッとしてうまい。子供たちが昼間の出来事をおかしそうに話している。幸せな一家団欒。フッと引き揚げ時の思い出が頭をよぎる。
 戦争中私は台湾の山村にいた。終戦時には国民学校1年生だった。学校の行き帰りは,上級生に連れられ大きな声で歌いながら通ったものである。
今日も楽しく兄さんと
一緒に学校へ行けるのは
兵隊さんのおかげです
お国のために,お国のために戦った
兵隊さんのおかげです
 学校から帰ると,河の中洲で戦争ゴッコ。上級生は指揮官,女子は従軍看護婦,われわれ1年ぼうずは新兵という役割である。普通の筋書きは,渡河作戦を行って敵前上陸を敢行し,鬼畜米英の立てこもる中洲の敵陣を落とす,というものだった。すすきの原ではチビは見つかりにくくて便利,よく斥候に出された。足をすりむいて敵兵におんぶされて帰ったこともある。
 敗戦の色が濃くなると,軍部は台湾決戦を呼号した。私の村は,石油地帯で重要な戦略拠点だったから,戦場になるのは間違いない。足手まといになる女子供は自決せよとの命令が出された。鬼畜米英が来ると,女は辱しめられ,子供は取って食われるという。そのくらいならひと思いに死んだほうがましである。本気でそう思い込んでいた。
 間もなく引き揚げ,広島県の大竹に着いた。まず検疫である。背の高い米兵が「ヘイ! カムオン」と手招きする。いきなり頭から白い粉をかけられた。そのとき,「ああ,とうとうてんぷらにされる!」と思った。もちろん,DDTなるものは知らなかった。年上の子に西洋人はてんぷらを食べないと聞かされてホッとした。
 思えば教育とは恐ろしいものである。日の丸掲揚強制の文部省通達に背筋の寒さを覚える。

(1985.9.21 稿)


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更新日:1997年8月19日