岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

戦争と私 1


中国残留孤児

 今日もテレビが中国残留孤児のニュースを伝えている。私はツッと立ってスイッチを切る。私も彼らと同じ世代,切なくて聞いていられないのである。
 私のふるさとは出坑礦,台湾中西部の山中にある小さな谷あいの村である。村の中央を大河後龍渓が流れ,大きな中洲があった。子供たちは,この中洲で戦争ごっこをしたり,淵で水浴びや魚捕りをしたり,毎日遊びに余念がなかった。畑には砂糖キビが実り,田では水牛がのんびりと耕している。のどかな南国の山村である。米が年に3度も取れる常夏の国,内地のような食糧不足もない。戦争の影といえば,あまり身体の丈夫でない母まで国防婦人会に狩り出されることくらい。子供たちとは無縁の世界だった。
 こんなのどかな村にもついに戦争が押し寄せてきた。出坑礦はわが国随一の産油量を誇る油田地帯だったのである。だから,ここの日本人はほとんど全部石油会社の関係者だった。ある日,兵隊が大勢やってきて,村の周囲の山々に高射砲陣地を築き始めた。「石油の一滴は血の一滴」,石油がなければ軍艦も戦車も動かない。油田地帯を守るため,との説明であった。制空権を奪われてから,グラマンが北へ北へとわが物顔に上空を飛び始めたからである。しかし,子供たちにはそんな切実感はない。珍しいものができて,遊びに行くところが増えただけである。兵隊さんの中に,いつも飴をくれたり勉強を教えてくれるとてもやさしい人がいた。もと先生だったとかで,教科書のどのページでも暗唱でき,われわれ子供たちの驚異の的だった。
 一方,ここの鉱場長をしていた父が,突然,変なことを始めた。遠くの山の中に社宅を移転するという。当然,通勤に不便になるからと反対が出たが,場長権限をふりかざして,強引に建設にとりかかった。後に父からこの間のいきさつを聞き,はじめて真相がわかった。技術者であり,工兵でもあった父は,陣地の中に異様な造りのものが混じっているのに気がついた。向きからいって,石油鉱場地帯を狙っているとしか思えないものがあったのである。軍部は,敵がフィリピンの次に攻めて来るのは台湾である,とにらんでいた。台湾決戦となり,敵が上陸してくれば,真っ先に油田地帯を押さえに来るに違いない。石油をおとりに谷間の鉱場地帯に誘い込んで,日本人部落もろともやっつけようとの作戦だったのである。父はそれを見抜いた。鉱場で働く男たちは仕方がないが,何とか女子供は助けたいと,社宅の移転を思いついたという。一般人は連戦連勝の大本営発表を信じているし,まさか日本軍が日本人に照準を定めているとは夢にも思っていない。真の理由を説明すれば憲兵に引っ張られる。ワンマンで押し切るしか手はない。
 そうこうするうちに,ある日,山の向こうの町が空襲に遭い,一晩中夜空を焦がした。戦局が不利なのが一般人にもわかってきた。台湾決戦まじかしとの,ピーンと張りつめた空気の中で,決戦時には足手まといになる女子供は自決せよとの命令が出された(これは場長である父にしか伝えられていなかったのかも知れない)。身を投げる淵まで部落ごとに指定されたという。父は私たち姉弟を林さんという台湾人に養子にやることに決めた。せめて子供だけは生かしたい,との親心である。母は,日本人が一人だけ異邦人の中に残ってもどれだけ苦労するか知れない,一緒に死のうと主張して,深刻な夫婦げんかになったという。理に基づく父の愛,情に基づく母の愛。そんな大人の世界を知らないまま玉音放送,敗戦となった。アメリカ軍が台湾を素通りして,沖縄決戦を行ったのを知ったのは,ずーっと後のことである。沖縄の人たちが私たちの身代わりに死んでくれたように思えてならない。今でもあだやおろそかな気持ちで沖縄の土は踏めないと思う。
 2学期になると日本人国民学校にも中国人の校長が赴任して来て,今までの校長先生は教頭になった。内地への引き揚げが始まった。父は,石油鉱場を中華民国政府に引き継ぎ,石油採掘技術を台湾人に教えるために残留した。捕虜ではなく,特別待遇だったそうである。そこで,翌昭和21年春,最後ぐらいの引き揚げ船で,母と子供たちだけの帰国となった。機雷を警戒しながらの駆逐艦による引き揚げは楽ではなかったが,まだ見ぬ祖国に対する期待でそれほど苦にはならなかった。
 しかし,戦後の混乱と食糧不足はひどかった。父の実家に帰ったが,伯母一家や叔母が同居しており,家主とは名ばかりで事実上の居候だった。台湾の父からは仕送りどころか手紙さえ届かない。台湾も極度の混乱状態だったのである。母は,女手一つで子供を養うため,お針や編み物の内職を始めた。水とん・カボチャの葉入りの雑炊・とうもろこしパンなどは上食で,生長しすぎたわらびから黒パンまで作って食べた。もともと身体の弱かった母は,慣れない内職の過労と姑・小姑とのストレスで,引き揚げて来てから半年ほどして死んでしまった。父の帰国を待ち望みながら‥‥‥
お母さま
泣かずにねんね いたしましょ
赤いお船で 父さまの
かえるあしたを たのしみに
 この清水かつらの童謡は,今でも平静な気持ちで最後まで歌うことができない。つい最近になって父が明かしたことがある。最初は家族一緒に台湾に残ることになっていた。「友達がみんな帰るのに,自分だけ残るのはいやだ。みんなと一緒に帰りたい。」と,私が駄々をこねたため,学校のこともあり,私たちだけ先に帰すことに決心したのだという。あの時,自分と一緒に残っていれば,こんなことにならずに済んだものを,と悔やんでいる様子が言外にあった。だから,私を傷つけまいとして,このいきさつを今まで口にしなかったのであろう。してみると,私が母を死に追いやったことになる。夢に出てくる母は若いままである。すまないことをしたと思う。
 1か月ほどして父が帰国した。父の再婚。新しい母の前では,台湾の話はタブーになった。いろいろなことがあった‥‥
 中国残留孤児たちには,どんなにつらい悲しいことがあったことだろうか。身につまされる。最近の孤児たちには,手がかりが少なく,わずかの記憶が頼りだという。記憶というものは,繰り返し話題にされることによって定着する。家族から小さい時の思い出話を聞かされ,あたかも自分がそれを記憶していたかのごとく錯覚することすらある。私の場合も,姉と散歩に出てこっそりと亡き母の思い出を話し合ったことがあるが,台湾のことは,タブーになってからは急速に記憶から薄れていった。それだけに,孤児たちが肉親の手がかりを今でも憶えていることを哀れに思う。布団の中ででも,ひっそりと小さな胸にくりかえしくりかえし刻み込んでいたのであろうか。次の世代にはこんな思いをさせたくない。戦争はゴメンだと心から思う。

(1985.9.21 稿)


ページ先頭|地質屋のひとりごともくじへ戻る
連絡先:iwamatsu@sci.kagoshima-u.ac.jp
更新日:1997年8月19日