岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

大学・学問・学生 9


ダム技術者の夢

 先日,『五木の子守歌』で名高い熊本県球磨郡五木村に行って来た。さすがに,平家の落人が逃げ込んだだけあって,奥深い山里である。ここにダムが出来て,村の中心地が水没するという。落人には,800年後の今も,安住の地はないのだろうか。哀れに思う。
 そのダムを川辺ダムという。ダムというと,満々と水を湛えた人工湖を想い出す。しかし,このダムには水がない。普段は空にしておき,大雨のとき溜め込んで,下流の人吉盆地を水害から守るのだという。人吉盆地には球磨川と川辺川の二大河川があり,両河川は人吉市のすぐ上流で合流し,大坂間の峡谷にそそいでいる。水の出口をしぼられているから,ここは水害常襲地帯である。大きいものをひろっただけでも,有名な昭和38年水害や昭和57年災害が挙げられる。球磨川の本流には市房ダムがあるが,昔作られたので発電用を兼ねており,洪水調節機能はない。そこで,川辺ダムで洪水を一手に引き受けようというわけである。いわゆる防災ダムである。
 今回,ダムサイトに大きな地すべり地があるというので,見に行って来たのである。その際,ダムを所轄している建設省川辺川工事事務所で,いろいろお話をうかがい,考えさせられることが多かった。
 川辺ダムが企画されたのは,38年水害直後だから,もう20年前のことである。ここにおられる技術者は,青春をこのダム一つにかけたことになる。いや,完成まであと10年とすると,人生のすべてをこのダムにかけたと言ってよい。技術者なら誰しも,自分たちが造るものが世の中のために役立つものであって欲しい,皆から愛されるものであって欲しい,と願うはずである。おそらく川辺ダムは,彼等にとっては,わが子と同じなのであろう。言葉の端々に愛着の念がうかがえる。
 「先生,温泉が出ませんかね。」「川の水が吸い込まれるところがあるんですが,鍾乳洞はありませんか。」などと,聞いてくる。ダムが下流の災害防止に役立っても,水没する五木村の人たちには何の利益ももたらさない。谷あいにあったわずかの農地も,部落の代替地として宅地になると,村人は何で生計を立てていけばよいのであろうか。若者は将来に見切りをつけて村を去って行った。残った人たちには,“子守りの里”としての観光開発しかないのではないか,と心配しての質問だった。「ダムにかける橋も山里の景観を壊さないようなデザインにしようと考えています。」「代替地も都会の団地のようではなく,木立ちの中に藁ぶきの家が並んでいるようなものになるといいのですが。しかし,個人の家の造作にまで口出しできませんしね。」などと,問わず語りに話が出てくる。こんなことまで考えるのは,彼等の本務ではないのだろうが,永年この事業にたずさわった者としての,やむにやまれぬ気持なのであろう。聞いているこちらも,その心情にうたれた。また,湛水域よりもはるか上流で山崩れ災害があったとき,早速,調査に行ったという。同じような地質がダム付近にもあるから,心配してのことである。さすがに技術者,林野庁調査団の公式発表と異なり,原因を正確におさえておられた。
 一方,あまりたいした根拠もなしに,安易にダム批判をする者には,あらわに激しい憤りを示す。市房ダムができたから,下流の水質が悪くなった。だから,川辺ダムができたらもっと悪くなる,といった類の批判である。某環境学者の説の由。市房ダム完成後高度成長期を迎え,農業は農薬中心の農法になったし,家庭生活も都市化して中性洗剤など生活排水の汚染も深刻になった,しかも,それら汚染源はダムの下流にある。単に時間的に相関があるからと言って,ダムのせいと決めつけるのはけしからん,それに川辺ダムは市房と違って水を溜め込むわけではないと,憤慨しておられた。確かに,こうした一見科学的装いをした非科学的な論法で,マスコミに売り込み,“人民の味方”と称する括弧付きの「進歩的」学者がいる。しかし,良心的な人でも,うっかりすると物事を一面的に見て,誤りを犯すこともありうる。相関係数はなかなかくせものである。われわれも心したい。
 今度官庁におられる技術者の方々と話し合って,官学共同について考えさせられた。従来ややもすると,行政目的のみが先行し,住民の要求や疑問をいかに抑えつけていくかが,お役人の手腕の見せどころとの観があった。また,災害の場合も,先の林野庁の例のように,天災という結論が先にあって,それに理屈づけをするために,“学識経験者”や官庁技術者が使われるというケースもままある。その結果,住民側には根強い行政不信・お役人不信を招いてしまった。しかし,一人一人は真の技術屋魂を持った良心的な人が多いのだと思う。そこに依拠してもっともっと協力関係ができないものだろうか。そのためには,計画当初から住民を参加させるなど,積極的に民意を汲む行政姿勢が必要である。政治問題がからまなければ,科学のレベルでもっとフランクな官学共同ができるであろう。

(1986.4.24 稿)


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更新日:1997年8月19日