岩松 暉著『地質屋のひとりごと』

大学・学問・学生 5


乞食と大学教授

 いじめ,体罰,臨教審etc.…教育の荒廃が叫ばれて久しいが,昨年(1985年)ほど教育問題が世間を賑わせた年はなかった。社会的背景もさることながら,今こそ教師の教育者としての力量が問われていると言えよう。わが子を見ていても,本当に子供が好きで,教育に情熱を燃やしている人に受け持たれた時のクラスはよくまとまっていて仲が良く,学校に行くのが楽しみで朝早くから喜んで出かけて行った。一方,力不足のくたびれマンネリ教師が担任の場合には,てんでバラバラで,同じ組の友達が遊びに来ることは稀である。恐らくデモシカ教師と言われた世代なのであろう。先生の力量によってこれほど差が出るのだ。単に学級経営だけでなく,子供の人格にまで深く影響を与えるかと思うと,それは恐ろしいほどである。かつて日教組内で反主流派が「教師聖職論」を唱え,主流派と論争したことを思い出す。まさに人づくりは聖なる職業である。臨教審とは別な意味で,真に優れた資質の人が教師になって欲しいと思う。
 ひるがえって私もその一員である大学教員の場合にはどのような資質が要求されるのであろうか。その前に大学教育の目的そのものについて考えてみたい。昔は「蘊奥の窮理,人格の淘冶」が標榜され,国家の指導者となるべきエリートの養成が目的だった。最近は大学が大衆化し,学ぶ側も教える側もその理念を見失って戸惑っているように見える。良い就職口を得るための通過点と割り切っている者すらいる。確かに卒業生はすべて社会に出て行くわけだから,それに必要な最低限度の知識や技術は必要であろう。しかし,それなら各種学校や職業訓練校との違いはどこにあるのであろうか。
 現在はニューメディア時代などと言われ,昨日の知識は今日は古くなっている。これは今に限ったことでなく,日進月歩の技術革新によって文明は発展してきた。大学で教わった知識などは10年経たずして役に立たなくなるのである。こうした事態に直面した時,新しい分野にどんどん挑戦して開拓していく人と,尻込みして何とか今までの手慣れた仕事にしがみついていこうとする人と,人の対応には二通りの道がある。先日,ある企業の幹部と話をする機会があり,「大学教育に何を望むか」質問してみた。彼の返事は次のようなものであった。
 大学の専門課程2年間で教えるくらいのことは会社なら1年で済む。はっきり言って,技術的なことは知っていてもらったほうが,会社としては便利だけれど,知らなかったからといって,それほど障害にはならない。企業が求めるのは,「広い視野と総合的判断力,新しいことにチャレンジする精神」である。長い目でみれば企業の発展につながるからである。個人差や例外はあるが,大学卒と高校卒が違うのはその点であり,将来の会社を託す者としては,やはり大学卒に一日の長がある。
 もちろん,こちらが大学教員だから,お世辞も含んでいるのだろうが,額面通りに受け取りたい。また,社会の要請=企業の要請ではないし,卑近な意味で実社会に直接役立つ人材を供給することだけが,大学教育の使命ではない。しかし,彼の求める点はその通りだと思う。ただ,目先の企業の利益だけでなく,その広い視野が,10年・20年先いや100年先の人類の幸福までも見通した批判的精神にまで昇華して欲しいと願っている。
 では,学生たちがそうした姿勢を身につけて卒業していくためには,われわれ教員はどのような教育を行えばよいのであろうか。私の学生時代を振り返ってみると,教養学部で地学ゼミを取ったことが大変大きな影響を与えている。片山先生(現東大名誉教授)という年輩の先生がおられたが,毎日曜欠かさず山へ調査に連れて行ってくださった。また,何時お部屋にうかがっても,いやな顔ひとつされず相手になってくださったし,コンパもお好きだった。何を教わったかはほとんど覚えていないが,白髪の先生が目を輝かして学問を語っておられたのが,一番印象に残っている。私が地質学者の道を歩んだのは先生の影響である。常に新しいところを開拓するのが学問であり,現状に対する批判的精神と未来に対する洞察力がなければ学者は勤まらない。初等中等教育と大学教育との違いは,単なる知識の伝達ではなく,この学問に対する情熱を学生に伝えることでなければならない。また,教員は暖かな人類愛も兼ねそなえた人格者であることが望ましい。冷酷有能なテクノクラートばかり養成しても困るからである。
 しかるに,「乞食と大学教授は3日やったらやめられない」という。「研究の自由」の名の下に「研究をしない自由」を謳歌し,教特法に守られて生活をエンジョイしている者がいかに多いことか。ルーチンの作業を研究と勘違いしている人も多い。そういう人に限って,「近頃の学生は無気力だ」などと嘆いてみせる。自分に実力も情熱もなく,感性が干乾びているのに,どうして学生が学問に魅力を感じようか。こうした人は即刻大学を去って欲しい。研究はプロの世界であり,人づくりは聖職なのだから。私自身も,創造性の枯渇を自覚した時には,潔く辞職したいと考えている。どこからもお声がかからず,同じ大学にじっとしていただけの"不"名誉教授にはなりたくない。

(1986.1.18 稿)


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更新日:1997年8月19日